前田慶寧の天満信仰と洋学

3月6日啓蟄。午後、妙心寺塔頭光國院にある本草家松岡恕庵の墓に参った。砂岩に「文長先生松岡君之墓」とのみ彫られ、「岡」の文字は破損。昨年、恕庵門人小野蘭山の没後二百年記念事業をおこなった際に恕庵のご子孫と出会い、その縁によりご子孫に案内されての墓参であった。

墓参の帰路、久しぶりに北野天満宮に参詣。本殿手前右側にある尖った石碑にふと目をやると、漢文の文字面から「菅原朝臣慶寧謹書」の文字が飛び込んできた。加賀藩最後の藩主前田慶寧である。その右には「菅原朝臣斉泰敬書」とある。慶寧の父である。上部には「神製」と大書した碑の題字。周囲は梅の枝が配されていた。これまで幾度か参詣したが、なぜ気がつかなかったのか不思議である。本殿に目をとられていたためであろうか。

参道入口の狩野直喜の撰文(昭和9年)や、東門近くの「和魂漢才」碑(嘉永元年)の方が見落としやすいのに。この碑を前にすると、幕末、平田派が全国的に「和魂漢才」の建碑運動を展開したことを想起する。以前は露天でよく碑文を読むことができたが、今では頑丈な鉄枠と厚いガラス板で被われてしまい、残念至極である。興ざめのあまり、すぐ脇の店先で長五郎餅を買う気になれない。

さて、「神製」碑の碑面左下に「明治二年歳次己巳秋七月斉泰拝識」とある漢文の識語によれば、斉泰が菅原道真の子孫であることをもって、「前摂政二條藤公」が本殿の前に碑を建てるように勧めたので、菅家文草から五律を二首選び、斉泰慶寧父子がそれぞれを書し、第七子の利鬯が梅花を描いた。扁題は有栖川中務卿一品親王の書す所という。さらにこの識語は孫の前田利嗣の謹書になるとある。

明治2年といえば、大聖寺藩(藩主は前田利鬯)と加賀藩の協力のもと、3月3日に大津で琵琶湖最初の蒸気船「一番丸」が進水して、運航を開始している。この年2月に刊行された『卯辰山開拓録』は、『西洋事情』の愛読者であった前田慶寧が推し進めた養生所、撫育所など開化事業を記録しているが、同時に、卯辰山天満宮の造営とその境内に掲げさせた「忠孝廉節」の四大字額も詳しく紹介している。養生所の頭取は佐久間象山蘭学を授けたことで知られる蘭医黒川良安。養生所の置かれた山頂からは谷をへだてて目と鼻の先に建てられた卯辰山天満宮が見えたはずである。その谷底の湯屋には長崎四番崩れで流刑となったキリシタン囚徒たちが押し込められていた。

北野天満宮で満開の梅の花を楽しみながらも、儒学洋学国学の渾然一体となった文明開化期に思いを馳せた一時であった。

生理学書の蘭文写本

 名雲書店からホームページhttp://www.nagumosyoten.jp/開設の案内状が届いた。さっそくのぞいてみると、「名雲電子待賈古書目録」が「和本の部屋」「西洋学の部屋」「医学の部屋」など18の部屋に分かれていて、どの部屋から入ってもよい。「医学の部屋」を開けてみた。蘭文写本2本(035と040)が目についた。いずれも幕末蘭学塾でよく学ばれたドイツ系生理学書の写本である。

 035 PHYSIOLOGIE DOOR BLUMENBACH 江戸末期写 半2冊
とある蘭文標題は写本の題簽による。標題紙の写真は不鮮明であるが、Grondbeginselen der natuurkunde van den mensche door J.F. Blumenbach. Hofraad en hoogleeraar in de geneeskunde te gottingen enz. Naar de laatste latijnsche uitgaave op nieuw vertaald. Door Jacob Vosmaer, Med. Cand. Met plaaten. Harderwijk, Bij J. van Kasteel. 1807.と判読できる。和文の書名をつければ『人身窮理基礎』ぐらいであろう。どこの蘭学塾でどういう蘭学生が筆写したのだろうか。医史学者内山孝一旧蔵本。
 原著はゲッチンゲン大学医学教授J.F.ブルーメンバッハの生理学教科書ラテン語版をJ.フォスマールが蘭訳したものである。この教科書は同じ書店から1791年にG.J.Wolffによる蘭訳が出ており、1791年版の舶載本としては早稲田大学洋学文庫の宇田川榕菴旧蔵本が知られる。
 掲出の1807年版の舶載本はまだ手にしたことはない。写本があるので、舶載されたことはまちがいない。蘭訳者J.フォスマール(1783-1824)はハルデルウェイク大学で医学を学び、後にユトレヒト獣医学校の初代校長となった。
 緒方洪庵『病学通論』(嘉永2年)の典拠のひとつにも同じブルーメンバッハの生理学書が挙げられているが、これはA.J.van Houte en F. van der Breggen. の訳によるAmsterdam, L. van Es, 1822.版である。
 蘭文写本でこれまで筆者が手にしたのは、佐賀藩蘭学者金武良哲旧蔵になるもので、Amsterdam, H.D. Santbergen, 1835.版である。ただし、原書の冒頭第1小節から第28小節までの抜き書き。伊東玄朴の象先堂関連の写本かもしれない。

 040 羅施人身窮理 坤巻(乾巻欠) 138丁 江戸末期写
 表紙の書き題簽に「羅施人身窮理 坤」とみえる。巻末には「安政二丙辰年春二月上旬/於時習堂求之/大雲譲/二巻之内」の墨書がみえる。乾巻を欠くので原標題が不明であるが、適塾でも学ばれていた、いわゆる「ローセ人身窮理書」にちがいない。京の蘭学者廣瀬元恭の時習堂で入手した写本。原書はおそらく、Roose(T.G.A.), Handboek der natuurkunde van den mensch, uit het Hoogduitsch vertaald, door M.S. Ypma. Amsterdam, L. van Es, 1809.であろう。香川大学神原文庫に袋綴の和刻本[請求番号491]がある。国会図書館所蔵幕府旧蔵蘭書(1362)(2308)は未見であるが、同じ和刻本であろう。
 名雲書店の解説は、大雲譲は旧福井藩医齋藤策順の弟にあたる大雲嵐渓と推定している。
 

出島蘭医の肩書き

 出島のオランダ商館員名簿をみていて、オランダ人医師の肩書きが気になっている。officier van gezondheid(オフィシール・ファン・ヘゾントヘイト)という肩書きである。これはフランス革命期に生まれた新しい名称 officier de santé(オフィシエ・ド・サンテ)に対応するオランダ語であり、オランダのバタヴィア共和国時代(1795-1806)に導入されたと思われる。出島のオランダ商館名簿でこの肩書きが現れるのは、1817年10月〜1818年10月の名簿に、Gerrit Leendert Hagen / Officer van Gezondheidとあるのが最初である。このハーヘンは前年の名簿(1817年10月まで)にも名がみえるが、肩書きはChirurgijn der 3 classe(三等外科)である。その前任者フェイルケJan Frederik Feilkeの肩書きはOppermeester (上級医師)。
 医師以外の役職名が従来の名称を踏襲しているのに、医師の肩書きだけが1817年にofficier van gezondheidに変わっている。フランスでは革命期に内科医と外科医の区別(差別でもあった)を廃止し、統一の名称としてofficier de santéが生まれた。これは旧来の医学部を廃止して医学校(Ecole de santé)を創設した変革と密接な関係がある。出島医師の肩書きの変更は、フランスの影響下に進められたオランダ本国およびバタヴィアでの医学教育、医療制度の変革が極東の出島に及んだ結果と思われるが、その辺の事情については、今後の宿題にしておこう。

 

幕末生け花書の蘭文賛

幕末の蘭学は時代の要請を受けて医学から兵学中心へと大きな転換をみせたが、医学、兵学の基礎学としての生理学、理学の普及を忘れてはならないだろう。幕末京都で蘭学塾時習堂を開き、佐野常民陸奥宗光らを教えた広瀬元恭(1821-1870)はそうした基礎学を教えつつ築城術まで研究した。その訳書『利摂蘭度人身窮理書』(安政3年)はフランス革命期に生理学教科書の好著として評判を高めたフランス人外科医・生理学者アンテルム・リシュランの『新生理学入門』Anthelme Richerand (1779-1840), Les nouveaux éléments de physiologie. Paris, 1801.の序論を蘭訳から翻訳したものだ。

また、『理学提要』(安政3年)はウィーンのヨーゼフ陸軍軍医学校教官イスフォルディンクが著した教科書『医学生のための理学入門』Johann Nepomuk Isfordink (1776-1841), Naturlehre für angehende Ärzte un Wundärzte, als Eileitung in das Studium der Heilkunst. Wien, 1814.を蘭訳から漢訳したもの。いずれのオランダ語原書も広瀬元恭の師である坪井信道が原典主義の教育で知られた蘭学塾日習堂で原書講読のテキストとして使用された教科書であった。

一昨日、幕末の生け花書『青山御流活華千瓶図式』上下二冊(水谷有雅著、安政4年、平安、錦章堂蔵板)を繰っていたら、上冊の「紫錦蘭 十一葉一花」図の蘭文賛が眼に入った。図に画かれた生け花は「初伝式 長生館梅暁 浪花亀井町 松田保蔵」なる人の作品である。

蘭文賛は文法的におかしなところもあるが、14行にわたる蘭文を翻字しよう。

Dit kruidje, hetwelk in bladeren / groen en buiten purper is, / is een van de schoonheid / der / Natuur, / welke door den kruid,, / zoeker geliefd / word. / Geschreven door Toofo Firose / te miaco in Japan, / in den tienden / van December / Ansij 4.

これを訳せば、「葉が緑で、葉裏が紫のこの小草は造化の妙のひとつであり、園芸家から愛好されている。トーホ・ヒロセ書、安政四年十二月十日、日本、ミヤコにて」となる。署名者「トーホ」は広瀬元恭の号「藤圃」である。紫錦蘭は文化13年(1816)に琉球から初めてもたらされたムラサキオモトのこと。

オランダ語kruidjeは指小辞jeが付いているように「小草」の意味をもつが、幕末に「コロイジー」と言えば、蘭学生のあいだで話題となった「コロイジー・ルールメイニート」kruidje roer my niet (私を揺するな草、の意)を想起させる。天保11年(1840)ごろに渡来したもので、当時は「顔羞草」「含羞草」「屈佚草」「指佞草」などと呼ばれたオジギソウである。「顔羞草」「含羞草」はオランダ語の別名schaamkruidの意訳である。このオジギソウが蘭学生の間で話題となったのは、珍しい渡来植物というだけではなく、彼らが学んだ教科書、すなわちリセランド『新生理学入門』に、動物と植物の境界領域にある植物の例として引用されていたからである。

外来植物が各地の物産会で話題となり、本草学者、蘭学者のみならず一般庶民にも浸透していった時代である。伝統を重んじる活け花の世界にも、異国の草木が侵入してきたとしても不思議ではない。幕末京都を代表する蘭学者広瀬元恭が青山御流の生け花書に蘭文賛を寄せた事情をもう少し、詳しく知りたいが、今は手がかりが乏しい。

狩野文庫の蘭書(5)

5.シュミット『子供向き道徳話における細事の大切さ』

Schmid, Christoph von (1768-1854)
De waarde der kleinigheden, in zedelijke verhalen, voor de jeugd en derzelver vrienden. Door H. Ch. Schmid. Met platen. Te Amsterdam, bij Ten Brink & De Vries. MDCCCXXVII[1828].
IV, (2), 186, (2) pp. 2 plates. 164x110mm.

略標題紙は「Verhalen voor de jeugd en de vrienden der jeugd.」(『子供と子供好きのためのお話集』)。クリストフ・フォン・シュミットの原書、Christoph von Schmid, Erzählungen für Kinder und Kinderfreunde. Landshut, 1821-1829からのオランダ語抄訳。「カナリア」「ツチボタル」「小鳩」「子羊」からなる。著者はカトリックのドイツ人司祭で児童向きの教訓物語作家としてヨーロッパ中で読まれた。

略標題紙に「荒井泰治氏ノ寄附金ヲ以テ購入セル文学博士狩野亨吉氏旧蔵書」との印記あり。標題紙に「三瀬」の円印がある。狩野文庫蘭書には、この「三瀬」印のほかに、「三瀬氏」「弎瀬氏」の印も確認できる。これらの蘭書には同時に、鳥蟲篆による印文不明の印(以下、鳥蟲篆印と呼ぶ)が捺されていることが多い。

たとえば、ハルバウル『オランダ軍医総監撰定薬方書』F.J. Harbaur, Formulier door den Inspecteur-Generaal van den geneeskundigen dienst des Rijks. 1823.は「弎瀬氏」印と鳥蟲篆印を有し、裏見返しの遊び紙に「Ik leende dit boek van myne oudste bloeder[sic] in den 1 July 1860」(1860年7月1日、本書を兄より借用せり、の意)との鉛筆書きを判読できる。オランダ軍医総監F.J.ハルバウルは1822年、青年医師フィリップ・フォン・シーボルトにオランダ軍医としてバタヴィア行きを勧めた人物である。

また、「三瀬」印と鳥蟲篆印をもつD.W.ボス編『オランダ語小辞典』D.W. Bosch, Beknopt en zoo veel mogelijk, volledig woordenboekje. 2de dr. Amsterdam, 1849.の見返しには、「Tot gedachtenis aan zijnen vriend Alex. von Siebold. Nagazaki 21 Dec. 1859.」(友人への思い出として、アレクサンデル・フォン・シーボルト、長崎、1859年12月21日、の意)と書き込んだ方形の貼紙(周囲の枠飾りは印刷)がある。

一方、狩野文庫蘭書中、この鳥蟲篆印のみが捺されている蘭書は以下の3点である。
1.クルーゲル『生理学』J.G. Kruger, Physiologia. Amsterdam, 1763.
「Dit boek behoort aan Minamoto no Ninomija」(本書は源二宮の所蔵なり、の意)とペン書きされている。
2.ウェイラント『学術用語辞典』P. Weiland, Kunstwoordenboek. ‘s Gravenhage, 1824.
「Aan myne lieve Oine haar von Siebold」(吾が愛するオイネへ、彼女のフォン・シーボルト)とフィリップ・フォン・シーポルトの自筆献辞がある。
3.イウェルセン『産科提要』Th.J. Iwersen, Enchiridion der verloskunde. Utrecht, Amsterdam, 1847.

これらのことから、鳥蟲篆印はフィリップ・フォン・シーボルトの門人で、その娘イネ(楠本伊禰)を養育し産科医としたことで知られる蘭学者二宮敬作(文化元年5月10日〜文久2年3月12日、1804.6.17-1862.4.10)の蔵書印と判断される。

「三瀬」「三瀬氏」「弎瀬氏」印は、二宮敬作の甥(敬作の姉庫子の子)で、慶応2年3月にシーボルトの孫娘高子(母イネ、父石井宗謙)と結婚した三瀬諸淵(みせ・もろぶち、周三、1839-1877)の蔵書印に違いない。

上記のハルバウル『オランダ軍医総監撰定薬方書』は、最初二宮敬作の蔵書であったが、なんらかの事情で三瀬の義兄である石井謙道(宗謙の長男、信義、1837-1882)の所有となったものを三瀬が借り出したまま、自分の蔵書としたものと推定される。

上記のD.W.ボス編『オランダ語小辞典』は、安政6年7月6日(1859年8月4日)父シーボルトと一緒に来日したアレクサンデルが二宮敬作に贈ったものを三瀬が蔵書としたと考えられる。

以下、本書シュミット『子供向き道徳話における細事の大切さ』も含めて、狩野文庫蘭書中の三瀬諸淵旧蔵書を、捺された印記とともに、著者順に掲げよう。

1.Anslijn, N., De arme Jakob. Leyden, 1847.
鳥蟲篆印、「三瀬」
2.Anslijn, N., Beschrijving der Washingtons- en Sandwich-Eilanden. Leyden, 1834.
「長崎東衙官許」「陸軍所」「三瀬」
3.Anslijn, N., Merkwaardigheden betreffende de natuur- en aardrijkskunde. Leyden, 1838.
「長崎東衙官許」「陸軍所」「三瀬」
4.Beckman, J.F., Handleiding bij het oderrigt in de versterkingskunst. Breda, 1865.
「沼津学校」「三瀬」
5.Bosch, D.W., Beknopt en zoo veel mogelijk, volledig woordenboekje. 2de dr. Amsterdam, 1849.
鳥蟲篆印、「三瀬」
6.Epen, G.J. van, Beknopte handleiding tot de leer der verbanden. 2de dr. Amsterdam, 1837.
「弎瀬氏」、不明印
7.Harbaur, F.J., Formulier door den Inspecteur-Generaal van den geneeskundigen dienst des Rijks. 1823. 鳥蟲篆印、「弎瀬氏」
8.Maatschappij tot Nut van ’t Algemeen, Bloemlezing uit Nederlandsche dichtwerken. Leiden, 1850. 鳥蟲篆印、「弎瀬氏」
9.Netten, C.A. Geisweit van der, Handboek der paardenkennis. Amsterdam, Den Haag, 1811.
「長崎東衙官許」「陸軍所」「沼津学校」「三瀬」
10. Prinsen, P.J., Uitgekozene leesstoffen. Haarlem, 1835.
「長崎東衙官許」「陸軍所」「三瀬」
11. Roose, T.G.A., Handboek der natuurkunde van den Mensch. Amsterdam, 1809.
鳥蟲篆印、「三瀬」
12. Schmid, H. Ch., De waarde der kleinigheden, in zedelijke verhalen. Amsterdam, 1828.
「三瀬」
13. Vegt, J. van der, Handleiding tot het briefschrijven. 2de stukje. Zwolle, 1853.
鳥蟲篆印、「三瀬氏」

[狩 II-A-166]

狩野文庫の蘭書(4)

4.クラーメルス『一般外来学術用語通解』第2版

Kramers Jz., Jacob (1802-1869)
Algemeene kunstwoordentolk, bevattende : de vertaling en verklaring van alle vreemde woorden en zegswijzen, die in geschriften van allerlei aard, in de taal der samenleving, in handel, bedrijf enz. voorkomen; (...) Tweede verbeterde en vermeerderde druk. Gouda, G.B. van Goor. 1855.

[V]-X, (4), 1032, 24 pp. 228x140mm.

半皮装丁。皮は赤色。背タイトルなし。幕末に日本で装丁されたらしい。遊び紙に「カラーメル著 辞書一冊」と墨書した貼紙と「狩野博士集書」印がある。巻末の24ページは、本書の版元ファン・ホール書店の売れ筋在庫本リスト(Mei 1857. Alphabetische fondslijst, van eenige der meest gezocht werken van den uitgever G.B. van Goor te Gouda.)。その最終ページに「蕃書調所」印。装丁の際、誤って略標題紙と標題紙よりも前に初版序文が綴じ込まれ、略標題紙に「長崎東衙官許」印、「山本氏蔵書印」(陰刻)がみえる。標題紙には「蕃書調所」印の「蕃」字のみ、および「文久辛酉「ソ」(○の中にソ)印。

これらの印記から、本書は文久2年に蕃書調所の蔵書となり、のち「山本氏」を経て狩野亨吉の所蔵となったことが分かる。同じ「長崎東衙官許」「蕃書調所」「文久辛酉」印と「イ」(○の中にイ)印を持つファン・デル・ビュルフ『理学基礎』P. van der Burg, Eerste grondbeginselen der natuurkunde. 1854.(狩VIII-D-1103)に「山本信実蔵書之印」(円印)があるところから、「山本氏蔵書印」の「山本氏」は神田孝平の教え子で開成所教官となった数学者山本信実(のぶみ、1851-1936)である可能性が高い。

狩野文庫の蘭書中、「山本氏蔵書印」の印を有する蘭書は、本書の他に次の9点がある。

1.Brouwer, D.J., Handleiding tot de theoretische en praktische zeevaartkunde. Deel 1. Nieuwediep, 1864.
2.Dekker, G.J. Dictionnaire raisonné hollandais et français. Deuxième partie. Français-Hollandais. Bruxelles, 1841.
3.Delprat, I.P., Verhandeling over den wederstand van balken en ijzeren staven. Breda, 1852.
4.Kerkwijk, G.A. van, Handleiding tot de versterkingskunst. Breda, 1854.
5.Littrow, J.J. von, Tafereel van het heel-al. ’s Gravenhage, 1848. 4 vols.
6.Swart, J., Handleiding voor de praktische zeevaartkunde. 3de dr. Amsterdam, 1856.
7.Ule, O., De wereld. Utrecht, 1855.
8.Verdam, G.J., Gronden der toegepaste werktuigkunst. Groningen, 1828-1837. 6 vols.
9.Verdam, G.J., Werktuigkunde. Platen. 2 vols.

[狩 I-D-42A]

狩野文庫の蘭書(3)

3.クラーメルス『一般外来学術用語通解』第3版

Kramers Jz., Jacob (1802-1869)
Algemeene Kunstwoordentolk, Bevattende : De Vertaling En verklaring van alle vreemde woorden en zegswijzen, die in geschriften van allerlei aard, in de taal der samenleving, in handel bedrijf, enz. voorkomen. (...) Derde, aanmerkelijk verbeterde en vermeerderde druk. Gouda, G.B. Van Goor. 1863.
Frontispiece, X, 1144 pp. 231x147mm.

幕末に大量に舶載されたオランダ語の外来学術用語辞典。口絵は編者の肖像画。見出し語はオランダ語で使用されるラテン語、フランス語起原の外来語が圧倒的に多い。語源、語義、用例をオランダ語で詳しく説明している。

江戸時代舶載蘭書のなかで、阿蘭陀通詞や蘭学者にもっとも早く利用された外来語辞典はメイエル『語彙宝函』(第6版1688から第12版1808まで)の第1部『バスタールト辞書』(Bastaardt-woorden)であった。中津藩医大江春塘編集、馬場貞由校正の蘭日『バスタールト辞書』(文政5年、1822刊)の底本が原書第6版(1688)であることは、このブログ2009-04-02「バスタールト辞書の底本」ですでに述べた。

『バスタールト辞書』の次の時代によく舶載されたのは、ウェイラント『外来学術用語辞典』Weiland, P., Kunstwoordenboek.(初版1824、補遺1832、新版1843、第2版1846、第3版1858)であった。この外来語辞典の第2版(Dordrecht, Blussé en Van Braam, 1846)は安政4年(1857)多摩で医師の青木芳斎と秋山佐蔵が金属活字で和刻本を出したことで知られる。

ウェイラントよりも充実した新時代の外来語辞典がこのクラーメルス『一般外来学術用語通解』であった。本書第3版の巻頭にある初版序文(「ハウダにて、1847年5月31日、編者」と日付あり)によれば、本辞典は、ハイゼやカルトシュミットの外来語辞典、モザンの大辞典をもとに編纂したという。ハイゼの外来語辞典はJ.W.A. Heyse, Algemeines verdeutschendes und erklärendes Fremdwörterbuch. の第9版。書名の引用はないが、カルトシュミットとは、J.H. Kaltschmidt, Neuestes und vollständiges Fremdwörterbuch.(版種不明)、モザンとはP. Mozin, Dictionnaire des langues française et allemande. Stuttgart, 1842-46.のことと思われる。「第3版への前書き」によれば、ハイゼの第12版で改訂したという。

江戸幕府旧蔵蘭書総合目録』には、クラーメルス外来語辞典の蕃書調所旧蔵本として、初版(Gouda, 1847. 本文950 pp.)1冊、第2版7冊を記載している。管見に入ったものをあげると、

第2版(Gouda, 1855. 本文1032 pp.)は、次項「狩野文庫の蘭書(3)」で記載する狩野文庫本(狩I-D-42A)、静岡県立中央図書館葵文庫本(AN126:洋書調所本、蕃書調所本の2冊)、佐賀鍋島家旧蔵蘭書(「医局」印あり、佐賀県立図書館[鍋209-H.53])、萩藩好生局旧蔵本(杏雨書屋[阿知波524a])、京都大学附属図書館本(黒田麹廬旧蔵本[VIII-0-K-2])などがある。

本書と同じ第3版は、杏雨書屋所蔵萩藩好生局旧蔵本([阿知波524b]、[阿知波524c])、京都大学附属図書館山脇本(「丙 第三十二号 カラーメル 羅蘭対訳全」の貼紙あり、[III-5-K10 山])がある。

標題紙に「狩野氏図書記」「荒井泰治氏ノ寄附金ヲ以テ購入セル文学博士狩野亨吉氏旧蔵書」の他に、「岡山藩医学館文庫印」の蔵書印がある。岡山藩医学館は明治3年に藩知事池田章政が創設した医学校で、医学監督に就任した明石退蔵(1837-1905)はオランダの二等軍医ロイトルを招聘した。

なお、本書初版には縮約版Kramers’ Woordentolk Verkort. Gouda, G.B. van Gor, 1854.があり、これをもとに、弘前藩蘭方医佐々木元俊(1818-1874)が和刻本『遠西葛拉黙児私著 蕃語象胥』(安政4年、1857)を整版で出している(2冊本、題簽は銅版)。

また、『外来語通弁』とでも訳すべき異版、Vreemde-woordentolk. Verklaring van de aan vreemde talen ontleende woorden en zegswijzen, die in de kunsten en wetenschappen, in den handel en de zamenleving voorkomen; Met aanwijzing der uitspraak. Bewerkt door J. Kramers Jz. Gouda, G.B. van Goor. 1865. 657 pp. も舶載されている。その管見に入ったものに、京都大学附属図書館所蔵高橋本([III-5-K-9 高])がある。この見返しには「イ カラームル羅甸字書 全壱」の墨書があり、標題紙に「日新堂印」の印記がみえる。

外来語辞典のほかに、幕末明治初期に「カラームル」「カラームルス」としてよく流布した蘭書に、『世界地理辞典』Geographisch woordenboek der geheele aarde. Gouda, G.B. Van Gor, 1855.と『世界地理・統計・歴史提要』Geographisch- statistisch- historisch handboek, of beschrijving van het wetenswaardigsteuit de natuur en geschiedenis der aarde en harer bewoners. Gouda, G.B. Van Gor, 1850. 2 vols.がある。後者は明治前期の大ベストセラー、内田正雄『輿地誌略』の種本に利用されたことで知られる。
[狩 I-D-42]