オランダ通詞中山家の洋印

ずいぶん以前、十年ほど前だったか、古渡りの蘭文兵書、ヤン・ヘンドリック・ファン・キンスベルヘン(1735-1819)の『海軍士官提要』Jan Hendrik Kinsbergen, Zeemans hand-boek. Amsterdam, 1782.を調査する機会があった。著者は第4次英蘭戦争の際、ドッガーバンクの海戦(1781)で勲功を立て、ドッガーバンク伯の称号を与えられたオランダ共和国の海将である。その古渡り本には表紙も背表紙もなく、裏表紙だけが残り、綴じ糸のバンドがむき出しになっている。標題紙に「横」字の円形印、「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」の蔵書印が捺されていた。標題紙によれば、

Tweede Deel Vyfde Stuk Van Het Zeemans-Handboek, Handelende Over De Practicale Scheeps-artillerie. (...) Amsterdam, Gerard Hulst van Keulen, 1782. 2de dr.

すなわち、同書の第2巻第5篇『実践海軍砲術提要』である。この第5篇は標題紙、著者前書き(pp. V-XVI) および本文274 ppからなるが、第6篇「実証的火器論」Traktaat der vuurwerken beproevd. Amsterdam, Gerard Hulst van Keulen, 1790. 72 pp.と合綴された八折り判(203x127mm)の端本である。
本文には諸処に赤通しがあり、通読のあとが歴然としている。第5篇本文の第1頁および巻末第6篇の最終頁のキュ・ド・ランプ(cul-de-lampe)に接する位置に、薄い青色の円形印(直径21mm)が捺されている。印文はNKiM=Aを組み合わせたモノグラムとなっており、NAKAiAMAすなわちナカヤマ(中山)と読める。
この円形印に最初に注目した研究者は岩崎克己であった。戦前、困難な状況にもかかわらず、舶載蘭書の書誌調査をすすめた岩崎は水戸彰考館所蔵『オランダ東インド領学校用オランダ語文法初歩』Eerste Beginselen der Nederduitsche Spraakkunst, ter Dienste der Scholen in Nederlandsch Oost-Indie. Samarang, bij Oliphant en Comp. 1844.にこの円形印を認めたものの、「' Nakajama 'を意味するか。但し確信は無い」と述べるのみであった(岩崎克己『彰考館文庫蘭書目録』昭和14年、私家版、No. 186)。
この印の主をはじめて特定したのは勝俣銓吉郎であった。曰く、「家蔵の所謂林子平本ショメールにはNKMAといふ円形の印章が青肉で捺してある。この印は寛政九年の年紀を明記した「阿蘭陀流膏薬之書といふ巻物伝授書によって、和蘭大通詞中山武成の印だといふことが判った」という(勝俣銓吉郎「蘭学者の参考書」、学鐙46号、昭和17年8月)。ここに云う「林子平本ショメール」は勝俣によれば「A-D(1768) とE-H(1769)の二冊」であるので、ショメル『日用百科事典』早稲田大学図書館洋学文庫所蔵勝俣本[8_c1108]に該当すると思われる(筆者未見)。岩崎が円形印を認めた水戸彰考館本は1844年刊行であるので、この円形印は中山武成(作三郎、1751-1816)だけではなく、その子武徳(得十郎のち作三郎、1785-1844)、さらにはその子孫まで使用されたようだ。
 これまで調査できたこの円形印をもつ蘭書には、上記「靄隅文庫」の蘭文兵書以外につぎのものがある。
1. Sewel, Willem : A Large Dictionary English and Dutch, in two Parts. The First Part. / Groot woordenboek der Engelsche en Nederduitsche taalen. Eerste Deel. Amsterdam, de Weduwe van Steven Swart, 1708. セウェル『英蘭辞典』。羊皮装丁の美本(210x170mm)。円形印は薄青ではなく黒印。真田宝物館、旧松代藩蔵書。
2. Id. : Groot woordenboek der Nederduitsche en Engelsche taalen. Het tweede deel. Amsterdam, de Weduwe van Steven Swart, 1708. セウェル『蘭英辞典』。円形印は同上。真田宝物館旧松代藩蔵書。
3. Astronomische oefening, verhandelende de beginselen der sterreloopkunde. Tweede druk. Amsteldam, d’Erven van F. Houttuyn, 1779. 2 vols. 『天文学入門』。第2冊 pp. 164-203に赤通し多し。福井県立大野高等学校、旧大野藩蔵書[蘭書16]。
4. Les tablettes guerrieres, ou cartes choisies pour la commodité des officiers et des voyageurs, contenant toutes les cartes générales du monde. Amsterdam, Daniel de la Feuille, 1708.
『軍用世界地図手帳』。縦190mm、横75mmの手帳型地図帳。京都大学附属図書館、新宮凉庭旧蔵書[V-2-T4]。背は羊皮装丁。表紙は墨流し模様の和紙を使用。折り込み地図全27図のすべてに薄青の円形印あり。折り目の裏打ち和紙にもときに円形印が捺されている。
5. Pitiscus, A. Samuel : Lexicon latino-belgicum novum. Rotterdam, 1754.
ピティスクス『羅蘭辞典』。金沢大学医学図書館蔵書[892P1]。標題紙に円形印(朱印)が捺されているが、削り取られており、予備知識がなければ判読不能に近い。
蘭書以外にも、NKiM=Aの円形印のある眼鏡絵8枚を先年、調べる機会を得た。それぞれ裏側には円形印が捺され、「一 おらむた国の内ゑんきほいせんといふみなとの図」などと和文の題が墨書されている。「十五 おらんた国の内しきだむみなとの図」には、「Wm Wardenaar」のペン書きサインと「いれむわるでなる」の墨書もみられ、中山武成が商館長ウィレム・ワルデナール(1800.7.16〜1803.11.14在職)から入手した形跡と思われる。墨書された番号のうち一番大きいものは「十九 おらむた国城あむすてるたむ河口石橋の図」であり、おそらく当時、多数の眼鏡絵が一括、中山家の所蔵となったらしい。この眼鏡絵の詳細については別に機会を得て、紹介したい。
18年ほど前、「洋学資料展 江戸期における翻訳の世界」(京都大学附属図書館、平成4年12月1日〜12月9日)を開催したとき、上記の新宮本『軍用世界地図手帳』を展示したことが契機となり、天理図書館司書の神崎順一氏から、同館所蔵のブラウ世界図模写図にNKiM=Aの円形印があるとの情報を資料とともにいただいたことがあった。同図書館の展示図録『古地図の中の日本』では、掲載写真から蔵書印の部分がカットされてしまったということだった。
以上の紹介した蘭書、眼鏡絵、地図は水戸彰考館所蔵『オランダ東インド領学校用オランダ語文法初歩』を除いて、すべて中山武成の蔵書と推定される。武成の『新増万国地名考』(安永8年)と天理図書館所蔵ブラウ世界図模写図とは密接な関係があるはずである。
これまでの舶載蘭書調査記録を全部見返す余裕はないので、中山家の洋印のある蘭書をまだ見落としている可能性がある。今後とも気をつけて中山家旧蔵蘭書リストを増補したい。

さて、キンスベルヘン『実践海軍砲術提要』に捺された「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」の蔵書印は山口高等商業学校の校長を長く務めた横地石太郎のものである。横地は漱石の小説『坊っちゃん』の赤シャツ先生のモデルとして知られる。万延元年(1860)金沢の士族に生まれ、明治17年(1884)に東京大学理学部化学科(応用化学)を卒業。京都府尋常中学教諭、造士館教授(1890))、愛媛尋常中学教頭(1894)をへて、山口高商教授(1900)、同校長となった。山口高商での校長在職は1907-1908, 1911-1924の14年半に及んだ。
この蘭文兵書と一緒に、明治11年(1875)に東京大学で出版された英文教科書、チンダル『自然の成り立ち・科学的唯物論』も手に取ることが出来た。標題紙は以下の通り。
The Constitution of Nature. / Scientific Materialism. / By / John Tyndall. / (From Fragments of Science) / Tokio: / Published by the Department of Literature / in / Tokio Daigaku. / 2538.
(2), 37, (1) pp. (200x132mm)
印記:「東京大学法理文学部図書」「十一ノ一 第三十号」「東京大学法理文学部払下之印」「「靄隅文庫」「横地蔵書」「横地氏審定図書」
すなわち、John Tyndall, Fragments of science for unscientific people: A series of detached essays, lectures, and reviews. New York, D. Appleton and Company, 1871. からの抜粋である。この教科書には「I. Yokoji [o]f Tokio-Daigaku」とのペン書きサイン、「明治廿一年十一月十六日ヨリ始ム 十二月七日終ル I. YOKOJI.」の鉛筆書きがある。学生時代に教科書の払い下げを受けたものらしい。本文には鉛筆で英文の語釈が書き入れられ、赤通しも見える。横地の京都府尋常中学時代の書き入れらしい。裏表紙の見返しには、生徒らしい四人の苗字(橋口、千頭、西之原、永山)と点数が書き込まれている。裏表紙の見返しにはまた、次のように英書名もペン書きされている。
Spencer – Representative Government.
Spencer – Phylosophy of Style.
Tyndall – Belfast Address.
Johnson –History of Rasselas.
Macaulay –Milton.
Malcolm – Clive.
Tyndall – The Constitution of Nature.
〃  – Scientific Materialism.
Macaulay – Warren Hastings.
Shakespeare – Marchant of Venice.
いずれも東京大学文学部(the Department of Literature in Tokio Daigaku)で出版された英文教科書と思われる。たとえば、「Malcolm – Clive.」は著者とタイトルを混同しているが、T. B. Macauley, Sir John Malcolm′s Life of Lord Clive. Department of Literature in Tokio Daigaku, 1879.であろう。
板沢武雄『日本とオランダ』(第2版、昭和37)の「江戸ハルマ」の版種を説明した記事のなかに、「横地石太郎氏所蔵の零本」(140頁)が紹介してある。幸運なことに、数年前、古書入札市でこの「零本」に遭遇した。『ハルマ和解』初版の書き入れ本で、jk項目の1冊である。見出し語は木活字印刷、訳語は初版の書き入れをさらに増補している。「市川氏印」、「ISIKAWA. DATBOEKTOEBHOORDER」の印文をもつ円印に加えて、「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」「横地氏審定図書」の印記が認められた。円周に印字された蘭文は「dat boek toebehoorder」と分析できるが文法的に不正確である。「本書の所有者」のつもりで書いたのであろう。
横地は古典籍の収集に熱心であったらしい。ネット検索によって以下の旧蔵書がわかる。
山口大学附属図書館貴重書の朝鮮刊本『読書続録』(明薛瑄撰、成化元年、1465刊、山口高商旧蔵)にはやはり「靄隅文庫」の朱印が捺されている(山口大学附属図書館HP掲載画像による)。横地が京都の古書店から購入したものという。画像で「寄贈者」印をみると、「横地石太郎」が昭和10年に寄贈していることがわかる。
五山版の心空『法華経音訓』(至徳3年刊の後印、ブランゲ文庫所蔵、「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」)や『源氏物語』青表紙本系統の写本2種(いずれも「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」印あり)も伝存するらしい。
また、早稲田大学図書館洋学文庫の勝俣銓吉郎旧蔵本『和蘭字彙』(文庫08_c1020)にも「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」が認められる(同図書館古典籍電子版による)。
京都大学附属図書館谷村文庫にも、加藤弘蔵『交易問答』(明治2年、東京谷山楼蔵板、「靄隅文庫」「横地氏審定図書」印)および『高野大師行状図絵』(「靄隅文庫」「横地氏珍蔵記」印)がある。

最後に、キンスベルヘン『実践海軍砲術提要』にもどれば、その多数の赤通しから判断して、本書はおそらく中山武成によって十分に研究されたと思われる。翻訳、あるいは引用がなされたかどうか、未詳である。今後の調査を待ちたい。本書の出版者Gerard Hulst van Keulenは航海地図、測量機器の製作、海事関係図書の出版で名高く、その出版物のひとつ、コルネリス・ダウウェス『オクタント用法記』Cornelis Douwes, Beschryvinge van het octant den deszelfs gebruik. Amsterdam, Gerard Hulst van Keulen, 1749.は阿蘭陀通詞本木良永によって『象限儀用法』と題して翻訳された。これについては中村士(なかむら・つこう)氏の論文「天文方の光学研究」(天文月報98-5、2005年5月)がある。また、クラース・ド・フリース『航海宝函』Klaas de Vries, Schat-kamer ofte kunst der stuurlieden. Amsterdam, Gerard Hulst van Keulen, 1781.も舶載され、大きな影響を与えている。