本木家文書の万国図説

 長崎文化博物館の本木家文書は阿蘭陀通詞本木良永・正栄父子の遺した通詞蘭学資料の宝庫である。そのなかの写本「万国図説」の典拠について、新しい知見をえたと思う。すでに先達によって指摘がなされていれば不明を恥じるしかない。
 「万国図説」(題簽による。内題は万国地理図説、4巻1冊)は序跋、編者名を欠いており、成立時期も不明である。神戸市立博物館の特別展図録『日蘭交流のかけ橋』(1998)の出品目録・解説では、「本木良永訳 酉6月(安永6年)」とし、「本書は、安永6〜7年(1777-78)に林子平(1738-93)が、長崎に2度目の遊学したおり、本木良永を尋ねて手書きした『輿地国名訳』の原本と考えられる」との記述がある(同書211頁)。
 しかし、「酉6月(安永6年)」の典拠は不明である。おそらく、林子平『輿地国名訳』末尾に「安永六年丁酉得之和蘭象胥本木栄之進崎陽館内書写」とある記載と関連があるかもしれない。また、実際に『輿地国名訳』記載の国名と「万国図説」の国名とを照合してみたところ、『輿地国名訳』の原本とするほどの一致はみられない。
 内題に「万国地理図説」とあること、また本文の各所に貼り込まれた付箋にオランダ語地理書を参照した形跡があることから、オランダ語地理書からの翻訳と仮定して、種々の蘭書を調べたが、ついに典拠の蘭書は見つからなかった。
 思い直して艾儒略『職方外記』(1623)と照合したところ、「万国図説」は、『職方外記』巻1〜巻4の翻訳であることが分かった。分かってみれば簡単なことだが、蘭書からの翻訳という思い込みが災いした形だ。
 「万国図説」の筆跡はすくなくとも二人の手が認められる。成立時期と訳者については、安永年間に松村元綱と本木良永が協力して翻訳した可能性が高い。紙数の多い方の手は良永の自筆と認められる。両者が「万国図説」翻訳の際に参照した蘭書の調査、訳文(読み下し文)の検討、「万国図説」の影響については今後の課題だ。