前田慶寧の天満信仰と洋学

3月6日啓蟄。午後、妙心寺塔頭光國院にある本草家松岡恕庵の墓に参った。砂岩に「文長先生松岡君之墓」とのみ彫られ、「岡」の文字は破損。昨年、恕庵門人小野蘭山の没後二百年記念事業をおこなった際に恕庵のご子孫と出会い、その縁によりご子孫に案内されての墓参であった。

墓参の帰路、久しぶりに北野天満宮に参詣。本殿手前右側にある尖った石碑にふと目をやると、漢文の文字面から「菅原朝臣慶寧謹書」の文字が飛び込んできた。加賀藩最後の藩主前田慶寧である。その右には「菅原朝臣斉泰敬書」とある。慶寧の父である。上部には「神製」と大書した碑の題字。周囲は梅の枝が配されていた。これまで幾度か参詣したが、なぜ気がつかなかったのか不思議である。本殿に目をとられていたためであろうか。

参道入口の狩野直喜の撰文(昭和9年)や、東門近くの「和魂漢才」碑(嘉永元年)の方が見落としやすいのに。この碑を前にすると、幕末、平田派が全国的に「和魂漢才」の建碑運動を展開したことを想起する。以前は露天でよく碑文を読むことができたが、今では頑丈な鉄枠と厚いガラス板で被われてしまい、残念至極である。興ざめのあまり、すぐ脇の店先で長五郎餅を買う気になれない。

さて、「神製」碑の碑面左下に「明治二年歳次己巳秋七月斉泰拝識」とある漢文の識語によれば、斉泰が菅原道真の子孫であることをもって、「前摂政二條藤公」が本殿の前に碑を建てるように勧めたので、菅家文草から五律を二首選び、斉泰慶寧父子がそれぞれを書し、第七子の利鬯が梅花を描いた。扁題は有栖川中務卿一品親王の書す所という。さらにこの識語は孫の前田利嗣の謹書になるとある。

明治2年といえば、大聖寺藩(藩主は前田利鬯)と加賀藩の協力のもと、3月3日に大津で琵琶湖最初の蒸気船「一番丸」が進水して、運航を開始している。この年2月に刊行された『卯辰山開拓録』は、『西洋事情』の愛読者であった前田慶寧が推し進めた養生所、撫育所など開化事業を記録しているが、同時に、卯辰山天満宮の造営とその境内に掲げさせた「忠孝廉節」の四大字額も詳しく紹介している。養生所の頭取は佐久間象山蘭学を授けたことで知られる蘭医黒川良安。養生所の置かれた山頂からは谷をへだてて目と鼻の先に建てられた卯辰山天満宮が見えたはずである。その谷底の湯屋には長崎四番崩れで流刑となったキリシタン囚徒たちが押し込められていた。

北野天満宮で満開の梅の花を楽しみながらも、儒学洋学国学の渾然一体となった文明開化期に思いを馳せた一時であった。