F. ハルマ刊『簡約世界』の天使

江戸時代に編纂された蘭和辞典『ハルマ和解』や「ドゥーフ・ハルマ」はオランダ人書店主フランソワ・ハルマFrançois Halma(1653-1722)が編纂出版した『蘭仏辞典』第2版(1729)の翻訳です。辞書編纂は古今東西を問わず、先行辞書の増訂や翻訳によることがしばしばです。F.ハルマの場合も例外ではありません。ユトレヒト郊外の教会牧師の息子に生まれたハルマは、1672年フランス軍がオランダ南部を占領し、ユトレヒトに駐留軍としてやってきたとき、フランス人将校からフランス語を習いました。そして1675年ユトレヒトに書店を構え、出版業を始めました。

ハルマが最初に出版した辞書は『仏蘭辞書』(ユトレヒト、1686)でした。その前年に、フランス国王ルイ14世が「ナントの勅令の廃止」によって新教徒に対する凄惨な弾圧を行い、改宗を迫りましたので、数万の新教徒がオランダに移住しました。その結果、オランダ社会でフランス語の需要が高まったのでした。ハルマは熱心なカルヴァン派信者でしたから、フランスから逃げてきた宗教的同胞に対する同情も強かったでしょう。さっそく、友人のルクセルと協力して、リシュレー、ポメ、タシャール、ダネなどの辞書を模範にして、『仏蘭辞書』を編纂しました。最初ハルマの助手でしたが、のちに喧嘩別れして独立し、ハルマに対抗して仏蘭、蘭仏辞典を出版したピーテル・マーリンは、「彼はリシュレーの辞典を翻訳した。この仏蘭辞典はきわめて不備なものであったが、当時オランダにはダルシーやファン・デン・エンデなどの辞典しかなかったので、それらよりもはるかに優れた辞書としてなかなかよく売れた」(マーリン『仏蘭辞典』第3版序文)といっています。

リシュレー、ポメ、タシャール、ダネはいずれもフランスの辞書編纂者です。

リシュレー(1631頃〜1698)の『フランス語辞典』Pierre Richelet, Dictionnaire français. 1680.は日常語の記述に優れた辞典として今でも17世紀フランス語の研究に欠かせません。

イエズス会士ポメ(1618~1673)の『ロワヤル仏羅辞典』François Pomey, Dictionnaire royal des langues françoise et latine. Lyon, 1664.は、ルイ14世の皇太子のために編纂されたため、ラテン語学習に必携の辞典として版を重ねました。

タシャール(Guy Tachard)はルイ14世によってシャムに派遣され(1685)、『シャム旅行記』(1688)を著したイエズス会士として知られていますが、その『新羅仏辞典』(1687)のフランス語をオランダ語に翻訳し、ユトレヒトラテン語学校の校長サミュエル・ピティスクス編『羅蘭辞典』(1704、実は1698)を出版したのはハルマでした。

神父ダネ(Pierre Danet、1650頃〜1709)による『新仏羅辞典』(1683)もルイ14世の皇太子のために編纂されたもので、その後、よく流布しました。

ハルマ『仏蘭辞典』初版(1686)は稀覯本のため、私はまだ実見の機会を得ませんが、当時のフランスを代表する辞典を参照したといえるでしょう。この辞典の編纂で多忙を極めているとき、ハルマはフランス人の知り合いから一冊のラテン語語彙集を見せられました。

ラテン語学習のための語彙集としては、当時全ヨーロッパ的に流布していたコメニウスComeniusの『世界図絵』Orbis pictusや『諸言語の扉』Janua linguarumが今でも有名です。

ハルマは『世界図絵』に言及しておりませんが、内容が初級過ぎてギムナジウムには向かないと判断したと思います。『諸言語の扉』は古くなって時代に合わないので、『仏蘭辞書』の仕事が終わったら、見せられた語彙集のオランダ語版を出したいと思いました。

こうして出版されたのが、ポメ『簡約世界』オランダ語版です。私がかつて閲覧したのはアムステルダム大学図書館蔵本です。標題はラテン語、フランス語、オランダ語の順で掲げられていますが、本文はフランス語、ラテン語オランダ語の順で各単語を併記した分類語彙集です。ハルマは刊記にあるように、このときユトレヒト大学の御用印刷人となっています。

F. Pomey, Indiculus universalis (...). / L’Univers en abregé, (...). / De beknopte wereld. (...). Utrecht, F. Halma, Imprimeur Ordinaire de l’Université. 1689.

ハルマはカルヴァン派の信者ですが、イエズス会人文主義的教育にそった、フランスの代表的なラテン語語彙集をオランダの高等教育の需要にあわせて出版したわけです。その一方で、亡命フランス新教との理論的指導者ピエール・ジュリウ『予言の実現』のオランダ語版P. Jurieu, De vervulling der prophetien. 1686.やピエール・ベール『スピノザ伝』のオランダ語版P. Bayle, Het leven van B. de Spinoza. 1698.を出版しました。ジュリウはルイ14世の弾圧を怒りをこめて糾弾し、その死の到来を予言し、同胞の帰国の早期実現を訴えました。『スピノザ伝』にはハルマ自身が無神論スピノザの哀れな死を当然の報いとする解説を寄せています。

ポメ『簡約世界』オランダ語版は原典がイエズス会士の編になりますので、当然、神による世界創造から始まります。冒頭部分は教理問答形式になっています。第1章「世界の構成部分について」は「諸天」「天上界」「天使」「聖人」と続きます。「天使」の部分を翻訳してみましょう。本文はすべてフランス語、ラテン語オランダ語の対訳になっています。天使の名称には原文のオランダ語を( )内に示しました。

問 天使とは何ですか。
答 あらゆる物質から解き放たれた精霊です。
問 彼らはどこで作られたのですか。
答 一般に、天上界で作り出されたと考えられています。
問 全員が天にいますか。
答 いいえ。世界の始まりに神がお作りになった者たちの多くは、ほどなく悪魔に変えられ、地獄へ落とされました。
問 その忌まわしい変化の原因はなんですか。
答 彼らの悪罪です。
問 恩寵を受けて生き残った善良な天使たちは天国で全員おなじ地位にいますか。
答 いいえ。彼らは三階級に分けられ、各階級は三つの隊に分けられています。
問 最高位の第一階級にいる天使はどんな天使ですか。
答 彼らを地位の順に、全員示しましょう。
 上級   
熾天使(Serafijnen)
智天使 (Cherubijnen)
座天使(Tronen)
中級   
主天使(Krachten)
力天使 (Magten)
能天使 (Heerschappijen)
 下級   
権天使(Prinsdommen)
大天使(Aarts-Engelen)
天使 (Engelen)


以上、9種の天使名のうち、ハルマ『蘭仏辞典』の見出し語に採用されているのは、智天使 (Cherubijnen)、
大天使(Aarts-Engelen)、天使(Engelen)の三語だけです。

 CHERUBIM. Naam van Engelen die op de Seraphims volgen. Chérubin, nom des Anges qui suivent les Seraphins.
Aartsengel. z.m. Archange.
ENGEL. z.m. Gods bode, Gods gezant. Ange, messager de Dieu.


『江戸ハルマ』ではCherubim項目を採用せず、

aartsengel. z.m. 法官ノ称スル天人ノ如ク羽アル者
engel. z.m. 神ノ使シメ

とあります。「法官ノ称スル」とはよく意味が分かりません。「使(つかわ)シメ」は「使い」の古語です。

「ドゥーフ・ハルマ」もCherubim項目を採用しておりません。aartsengelは初稿になく、

第二稿:  aartsengel. zm. 第一のエンゲル
和蘭字彙』: aartsengel. z.m. 第一ノ「エンゲル」
初稿: Engel zm Gods Gezant / Kami no tsoekawa sime
第三稿:engel, z.m. gods bode, gods gezant. 神ノ遣[→使]ハシメ
和蘭字彙』:engel, z.m. gods bode, gods gezant. 神ノ使ハシメ

としています。「第一の(ノ)」という訳語は接頭辞aartsに統一的に与えられています。



ハルマはポメ『簡約世界』オランダ語版では、各種の天使にオランダ語名称を逐一与え、カトリック世界の常識を解説しましたが、オランダの新教世界のための『蘭仏辞典』では天使を枚挙する必要はなかったといえるでしょう。ちなみに、ハルマ『仏蘭辞典』では次のように、詳しい情報が掲載されています。

SÉRAPHIN. s.m. Ange du premier Ordre. Een Serafijn, een van de hoogste Engelen.

CHÉRUBIN. s.m. Esprit céleste, Ange du second ordre. Een Cherub of Cherubijn, een hemelsche Geest, een Engel.

Vertus se prend en troisiéme lieu pour un des Choeurs de la Hiérarchie céleste. Les Anges, les puissances et les Vertus sont assujettis à Jesus Christ. I. Pierre, ch.3. v.22. De Engelen, de Magten en de Kragten zijn Jesus Christus onderdanig gemaakt. I, Petri, c.3. v.22.

Puissance, un des Ordres de la Hiérarchie céleste. Magten.

Dominations. Terme de l’Eglise. Quatriéme Ordre de la hiérarchie céleste. Heerschappyen, vierde Order der Engelschaaren.

Principautez signifie dans l’Ecriture l’un des Ordres de la Hiérarchie céleste. Overheden.

ARCHANGE. s.m. Aartsengel.

ANGE. s.m. Esprit créé. Engel, een geschapen geest.