ヤンロウイス探訪記

前野良沢儒教の基本的概念である「仁」に対応するオランダ語がBarmhartigということを阿蘭陀通詞吉雄耕作(幸左衛門)の訳で知ったことから、その類義語を「キリアヌス」、「ヤンロウィス」「ビクロットン」「マリン」など数種の辞典によって調べ尽くし、その分析の成果を「仁言私説」にまとめました。

この3月末に刊行された『前野良沢資料集』第二巻(大分県先哲叢書、大分県教育委員会)に「仁言私説」の信頼できる校訂版が収録されたのは大変よろこばしいことです。

良沢が手にした辞書がどのような辞書であり、その辞書が版を重ねている場合は、どの版を利用したのか。これを確定することが研究の第一歩でした。2000年春パリに滞在していたとき、時間的余裕が出来たのを利用して、4月初旬にその調査をするため、オランダとベルギーを回りました。

その成果を、2003年10月12日の洋学史学会中津大会において「前野蘭化のおける蘭学事始」と題して発表しましたが、そのときは版種確定に到達するために閲覧したさまざまな異版について省略しましたので、ここで当時のノートをもとに、探訪記をまとめておきたいと思います。

まず、一番苦労した「ヤンロウィス」から始めます。
良沢は「仁言私説」でBarmhartigの別の語形Bermhertigを示し、

Bermhertig,
Ziet ontferm,,
hertigh
此言ヤンロウィスニ出

と記しています。「ヤンロウィス」がJan Louys d’Arsyという辞書編纂者であることは、『好書故事』蘭書編に「仏郎察和蘭二国言語通解 二冊(...)ヤンロウイス・デ・アルセイ撰」とあることからわかりますが、上記の良沢の綴り通りに見出し語Bermhertig項目を掲げている版を探し出すのは容易なことではありません。以下の版はいずれも該当しませんでした。

Het Groote Woorden-Boeck. Amsterdam, de Weduwe van Jan Jacobsz. Schipper, 1682.
ライデン大学図書館所蔵、UBL[o 84-18**])

Het Groote Woorden-Boeck. Rotterdam, Van Waesberge, 1643.
ブラバント大学神学部図書館所蔵、TFH[A-10774])

Het Groote Woorden-Boeck. Amsterdam, A. Schelte, 1699.
(ルーヴァン大学図書館所蔵、K.U.Leuven Tabularium[5A-14979])

最後に次の版種がまさに良沢が使用した版であることが確認できました。標題はゴシックとローマンの両書体で印刷されていますが、すべてローマン書体に翻字しておきます。

Het Goote Woorden-Boeck, vervattende den Schat der Nederlantsche Tale, met een Fransche uyt-legginghe. Van nieuws oversien, vermeerdert, verbetert, en met verscheyden schoone Spreucken verrijckt. Door Ian Louys D'Arsy. Met noch een aenhangsel van ontallijcke Woorden die uyt andere Talen haren orrspronck nemen. Tot Utrecht, By Harman Specht. Anno 1643.
(ルーヴァン大学図書館所蔵、K.U.Leuven Tabularium[A-8796])

上記4種の蘭仏辞典はいずれも同じ編者の仏蘭辞典Le Grand Dictionnaire Français-Flamen.と合綴されています。

この調査旅行の最後の段階で、何としても良沢が利用したユトレヒト版(Utrecht, Harman Specht, 1643)を日本に将来させたく、ユトレヒト郊外の懇意な古書店に問い合わせたところ、何と在庫しているとの嬉しい返事が帰国間際に届きました。しかも、合綴本ではなく、蘭仏辞典だけです。

それ以前にも、私はユトレヒト前野良沢利用の蘭書に出会う幸運に恵まれました。

別のユトレヒト市内の小さな古書店でした。オランダ人の友人(ティチング研究家)とその店を訪れたわけですが、私が店の二階へ階段をのぼっていくと、目の前に気になる赤い背表紙の2冊本が飛び込んできました。手に取ると、なんと「リュスラント」とも「ロシア全書」とも呼ばれた
レイツ『新旧ロシア帝国誌』

Joh. Frederik Reitz, Oude en nieuwe staat van ‘t Russische of Moscovische keizerryk. Utrecht, J. Broedelet, 1744. 2 vols.

ではありませんか。

同じくユトレヒト版だからといって、良沢が利用した「ロシア全書」に引き続いて「ヤンロウィス」にも、ユトレヒトで出会えるとは、実に幸運でした。研究者冥利に尽きます。