写す文化(2)

中江兆民の師、細川潤次郎(号十洲、1834-1923)は明治政府の法制、文教政策に深く関わった土佐藩出身の洋学者です。関東大震災でその蔵書が焼失したため、細川の伝記資料はあまり残っておりません。『十洲全集』附録に「細川十洲翁略伝」(奥宮正治撰)があります。

アヘン戦争と黒船来航の二大ショックを受けた同時代の青年士族と同じように、細川も海防が一大関心事になります。和漢の書物は参考するに足らず、外国事情を知ろうとしても、僻遠の土佐の地では師友もなく、書物もありません。そこで細川は意を決して、安政元年四月、長崎に私費で出掛け、同年末には藩から留学費用を受けることが出来ました。

長崎では阿蘭陀通詞からオランダ語高島秋帆の子淺五郎から西洋砲術を学びました。安政2年から始まった幕府の長崎海軍伝習で航海術が教授された影響を受け、細川も航海術習得を志しましたが果たせず、父の病気で安政4年、帰省しました。翌年には藩命で江戸に留学し、中浜万次郎に就いて英語を学びます。

細川は長崎に留学したてのときに、ある留学生の話を耳にし自戒します。細川の回想録『ななしくさ』から引用しましょう。この話から、当時、長崎留学生がいかに写本作りに精を出したか想像できます。しかし、写す文化といっても、ただ写せば知識が身につくというわけではありません。写し方に問題があります。

或る上方筋の少年、長崎にて医術を学びけるに、師友の話の有益なるは之れを記録し、有益の書籍は之を写し取りけるが、年経るままに数十巻となりぬ。さて帰郷の期にもなりぬれば、例の記録写本を行李の中に収め、宿次の人足を雇ひて運搬せしめつつ小倉の城下より舟に乗り、下の関さして漕行くほどに、雲の気色俄に変り風強く波高くなりて、一葉の舟は忽空中に{風+易}るが如く忽深谷に墜るが如く動揺上下するに、乗組の人々は船底に臥し転びまたは船舷に取付き居たりしが、舟の舳艫に積置たる荷物はことごとく高浪に捲き去られぬ。此の医生の有益の事を忘れじとて物せしはさることながら、渾ての精神を紙筆のみに委ねて記憶に留めしもの少かりければ数年間の学問は水の泡と消失せたりとなん。此話を聞きつるは余が長崎に遊学せし折りにてありければ、同じ覆車の轍を踏まぬやうにと心に省ることありき。

博覧強記の細川潤次郎といえども、おそらくこの医学生にもおとらず沢山の写本を長崎で作ったことでしょう。それも細川が中浜万次郎からもらったウェブスター辞典とともに、関東大震災で焼失したと思います。