写す文化

江戸時代舶載蘭書、オランダ語の写本、蘭書からの翻訳(写本、刊本)、伝記・個人資料など、蘭学資料の書誌的な調査研究を長年行っています。

書誌的な調査研究といっても、一般の方にはどんな研究なのか分からないかもしれません。蘭書を実際に手にとって、著者、書名、タイトル、刊行年、寸法、ページ数、図版枚数、書き入れ、蔵書印などのデータを採録し、目録を作成する。オランダ語写本や翻訳の原典を確定する。写本の書き手、翻訳者、蘭書の出版者、所蔵者、翻訳蘭書の原典(フランス語、ラテン語、ドイツ語などの原書)などについて調査する。蘭書の出版史、受容史を調べる。などなど実に多岐にわたる詳細な調査です。

こうした調査研究のなかで、常日頃感ずることですが、江戸時代は実に写す文化が最高度に発達した時代ではないか、ということです。よく江戸時代の識字率の高さが日本の近代化を成功させた、といわれます。識字率の高さはどのように達成されたかといえば、寺子屋の発達です。では寺子屋で何を教えていたか、読み書き算盤です。これは常識でしょう。

しかし、最近のように、鉛筆やボールペンで書くよりもパソコンで文字を入力する時代になると特に忘れられやすいことですが、重要なことが一つあります。それは、「読み書き」の教え方、習い方です。教材として与えられた文字や文章を生徒はまず、自分の手で、墨と筆を使って写します。何度も何度も繰り返し写しながら、その文字や文章の読みを覚えます。つまり「読み書き」は「写す」という手作業の反復によって同時に学習されるわけです。「読む」「書く」は「写す」と同時に行われる「手作業」なのです。さらに「美しく写す」ことも求められました。いわゆる「習字」です。この「写す」という学習原理は時代を超えて現代でも決しておろそかに出来ない重要な原理でしょう。

舶載蘭書や翻訳刊本を除けば、蘭学資料の多くは写本です。その写本のなかで、取り扱いが難しいのがオランダ語写本です。大抵の場合、抜き書きであったり、書名が完全に写されていなかったりして、原書の確定が困難です。

こうしたオランダ語写本はオランダ語の原書から直接写されたものもあるでしょうが、多くは写本から作られた写本です。原書が高価で入手困難であったという事情もあり、学習者の数だけ写本が作られたといってもよいほどです。蘭学生や蘭学者にとって、蘭書を読むことは即、蘭書を写すことでした。人から蘭書(大抵は写本)を借りて、それを写します。

オランダ語の初学者にとっても写すことは学習方法の第一歩でした。長崎の阿蘭陀通詞たちの間で採用された学習法だったと推定されますが、それを前野良沢が「蘭化亭訳文式」(蘭化は良沢の号)と銘打って江戸の蘭学仲間にオランダ語の翻訳方法を教えました。

良沢はこの「蘭化亭訳文式」冒頭で、「凡そ飜訳を為す者、よろしく先ず線字を用て原文を謄写すべし」といいます。つまり、この方式は、オランダ語原文をまず写し、次ぎに単語一つ一つに訳語(対応する漢語)を書き込み、前置詞や接続詞は「助辞」、冠詞は「発語」とする、その上で、訳語を漢文式の訓点で繋ぎ、原文の読みを片仮名で示し、さらに訳文を読み下す、というものです。

初学者も蘭学者も、まず蘭文を写すことが学問の始まりだったわけです。

最後にひとつ問題が残ります。では、蘭書がゴシック書体で印刷されている場合、どうしたのか。やはりゴシック書体で写したのか。それともローマン書体に直したのか。これはまだそれほど調査できていない課題です。

私はドイツ語初歩をゴシック体印刷の文法教科書でまなびましたが、そのとき、ドイツ語の古い筆写体までは習いませんでした。これを習っておけば、今のように苦労しなかったのに、と悔やまれます。

阿蘭陀通詞や蘭学者はローマン書体以外の書体を知識として知っていましたし、ゴシック書体を読むことはできたのですが、彼らがローマン書体以外の書体で書くことが出来たかどうか。断定はできませんが、おそらく書けなかったでしょう。例外的にゴシック書体の写本が1点伝わっていますが筆写体ではありません。

その1点というのは水戸彰考館に伝わるドイツ兵書です。林子平が『海国兵談』のなかで「キリーキスブツク」と呼んでいるもので、ウィルヘルムス・ディリキウス『戦法書』Wilhelmi Dilichii, Kriegsbuch. Franckfurt am Mayn, 1689.の写本です。これはマイクロフィルム映像で見る限り、刊本ではないかと思われるほど精密に、ゴシック書体のドイツ語原文を模写した見事な写本で、阿蘭陀通詞吉雄幸左衛門の蔵書印が押されています。