森島中良の子供

桂川甫粲(かつらがわ・ほさん、1756?-1810)、のち甫斎、通称森島中良は『紅毛雑話』(1787)、『万国新話』(1789)、『類聚紅毛語訳』(蛮語箋、1798)などの啓蒙的な著作で知られる天明・寛政期の蘭学者です。同時に戯作者でもあり、また中国の口語(白話)も研究しました。江戸の代表的な蘭学者で幕府医官の兄桂川甫周(1754-1809)が開いていた蘭学サロンには江戸の多くの蘭学者たちが集いました。中良はこのサロンの遊び心を体現して、多方面の活躍をしました。

これまで、「中良は妻子なく、いつもこの兄と居をともにし、その研究を助け合ってまるで一心同体であった」(今泉源吉『蘭学の家 桂川の人々』、306頁)と言われてきました。

ところが、中良に子供があったことを今から10年ほど前に知りました。当時、この伝記上の新事実を愉快とは思いましたが、今日まで紹介の機会を得ませんでした。本日、このブログで紹介して、関心のある方のお役に立てばよいと思います。

10年ほど前、この事実を記録した「池田瑞仙医案略記」という墨付5丁の写本に出会ったのでした。池田瑞仙(1735-1816)は寛政9年(1797)幕府医官に取り立てられ、天下に名を知られた京都の痘医です。この写本の表紙には「多紀永寿院法印自書池田瑞仙医案略記」とあり、幕府医学館(寛政3年創設)の教授多紀元徳(もとのり)の自筆ということになります。この医学館は多紀家の家塾躋寿館を官立にしたものでした。版心の「聿修堂」は多紀家の堂号です。内扉には「寛政九年丁辰(ママ)正月/池田瑞仙医案略記」とあり、この時に、多紀元徳が筆写したのでしょう。内扉にはまた、「森氏開萬冊府之記」「池田瑞仙書籍之記」の印記がみえます。池田瑞仙の蔵書をのちに医学古典籍の研究で知られる森立之(1807-1885)が入手したことが分かります。瑞仙が多紀元徳の自筆本を蔵書とした経緯は不明です。

この略記は以下4名の子供の疱瘡を瑞仙が治療した記録でした。

日本橋平松町仕立屋 大坂屋甚兵衛倅 五歳小児
同所稲荷新道縫箔屋 伊賀屋吉兵衛小児
下谷貳丁町御徒 鈴木半八郎倅 十歳男子
桂川甫周弟 森島甫斎倅 五歳小児

桂川甫周は寛政5年の末に多紀元徳の兄元張の子、甫筑を養子に迎えました。蘭方外科の桂川家と漢方の多紀家が姻戚関係にあったということも、森島中良の子が医学館に呼ばれた池田瑞仙の治療を受けたことと無関係ではないでしょう。

瑞仙は中良の子を実際、どのように治療したか。今は、この記録を翻刻する余裕がないので、別の機会に回します。ただ、この「略記」冒頭で、多紀元徳は瑞仙の治療法は明の戴曼公伝来の「一家之法」にすぎず、その流儀は別段のことでもない、とそれほど評価していません。