掛川天然寺のヘンミー墓碑文

静岡県掛川市仁藤(にとう)町の天然寺にある商館長ヘンミーGijsbert Hemmij (1747-1798)の墓を初めて訪れたのは、2003年5月9日でした。

蒲鉾形の墓石表面に刻まれた蘭文は長年の風雨と苔のため判読がかなり難しい。墓の脇には、大正14年5月に建てられた巨大な祈念碑がありました。

その碑には、ヘンミイの法諱(戒名)、墓石の蘭文の重刻、その訳文と由緒が刻まれています。それらを以下に示します。ただし、碑の訳文と由緒は碑では縦書きです。旧字体新字体に直しました。MRのR、Aoのoは上付き文字です。□は判読できず、( )内に文字を補いました。「国母」と「台覧」の前は欠字です。


諱  法
士 居 善 法 達 通
刻 重 銘 碑 文 蘭


HIER  ONDER  RUST  HET
STERFELYKE  GEDEELTE  VAN
DEN  WELEDEL ACHTBAAR HEER
MR  GYSBERT HEMMY IN ZYN
EDELENS  LEEVEN  OPPER
KOOPMAN  EN  OPPER HOOFD
VAN  DEN  JAPANSEN HANDEL
GEBOOREN  DEN  16 JUNY 1747 EN
OVERLEEDEN  DEN  8  DITTO
Ao 1798 EN BEGRAAVEN DEN 9 JUNY
1798

緒   由   文   訳
此地下静座ノ体アリ恭フベシ尊ムベシ名ヲゲイスベルトヘムミ先生ト称スル君ノ生ヲ終タル処ナリ先生存命ノアヒダ職ニ在リテ主ル所ハ日本国交商ノ大商官ト鍳舶師ヲ摂タリ、我紀元一千七百四十七年五月十六日誕生同一千七百九十八年六月八日往生而葬之
維時一千七百九十八年六月九日

蘭使ヘムミ先生、寛政十年三月十五日江戸城ニ徳川十一□□(代将)軍家斉卿ニ謁見シ、皈途病ヲ獲、四月廿二日一行七十余名ト共ニ当駅中町喜多右□□(衛門)方ニ投宿遂ニ起ツ能ハズ四日(陽暦六月八日)暮レ六ツ半時永眠、時ニ年五十有二翌二十五日仏式ヲ以テ当山ニ埋葬シ法諱ヲ通達法善居士ト称ス直ニ墓墳ヲ築キ墓表ニ蘭文碑銘ヲ刻ミ(現存スルモノ是ナリ虧喪セルトコロアリ故ニ本碑ニ重刻ス)尚ホ厨子形位牌ヲ安置セリ爾来蘭使往来ノ途次必ズ展墓シ毎年香華料ヲ寄セシカド明治維新ノ後ニハ音信ヲ絶チ古墳ハ全ク荒廃ニ委セリ、此間文学博士新村出君「ヘ」氏伝ノ研究ニ竭クサレ当史蹟ノ顕彰ニ努メラレタル功労ハ深ク之ヲ多トス大正十一年三月 国母陛下静岡御駐泊ノ砌リ畏クモ関係古文書 台覧ノ光栄ニ浴シ、越テ十二年一月和蘭公使館通訳官文学博士「フヱンストラ、コイペル」君展墓、同年五月古記録調査ノ使命ヲ帯ビテ来掛、貴重ナル史蹟ノ空シク堙滅ニ帰セントスルヲ遺憾ナリトシ本国政府ニ稟請セラレタル結果、蘭国政府ハ墓所改修費ヲ負擔シ、香華料ノ寄贈ヲ復旧セラレタルノミナラズ記念碑建設ノ挙ヲ翼賛セラレ地方有志ノ諸彦亦饗応シテ本記念碑ノ竣成ヲ告ゲ以テ日蘭国交ノ旧誼ヲ永遠ニ伝フルコトヲ得ルニ至リタルハ豈ニ独リ発起者ノ欣懐ノミニ止マラン乎
大正十三年四月墓碑修繕竣功十四年五月本記念碑落成
泉洞山天然寺廿四世現董泉覚正謹誌
発起者 鈴木理一郎 青山英太郎 山崎茂七 
鳥井俊三郎 永田又太郎 桐田孝太郎

<注記>
天然寺には厨子形位牌および関係文書が伝わっており、調査させていただきました。記念碑に重刻された「蘭文」「訳文」は関係文書のひとつ「荷蘭人牌銘訳文」(「寛政十年四月二十四日泉洞山十九主 持誉代」の箱書きあり)によるものでした。ヘンミーの誕生日「6月16日は「訳文」では誤って「五月十六日」となっています。

由緒の文中にある「フヱンストラ、コイペル」は、当時、オランダ公使館通訳官であったJan Feestra Kuiperです。コイペルはその名著『18世紀における日本と世界』Japan en de buitenwereld in de achttiende eeuw. S-Gravenhage, M. Nijhoff, 1921.で名高い日本学者です。天然寺に伝わる流麗な筆になる日本語の書簡はコイペルの深い学識と日本文化への愛情を感じさせます。

「牌銘」は墓石の蘭文を転写し、その読みを片仮名書きの振り仮名でその読みを書き加えたもので、末尾に「江戸石川七左衛門殿ヨリ贈ル」とあります。「石川七左衛門」とは当時大坂城大番組の職にあった幕臣で洋風画家の石川大浪(1762-1817)その人です。

重刻の蘭文、文書の「牌銘」、墓石の蘭文を比較すると、重刻の蘭文の行変えは墓石の蘭文を反映しておらず、文書の「牌銘」の方が正確です。そこで、墓石の蘭文の復元を以下に試みましょう。

HIER  ONDER  RUST
HET  STERFELYKE
GEDEELTE  VAN  DEN
WELEDEL  ACHTBAAR
HEER  MR  GYSBERT
HEMMY  IN  ZYN
EDELENS  LEEVEN
OPPER  KOOPMAN
EN  OPPER  HOOFD
VAN  DEN  JAPANSEN
HANDEL  GEBOOREN
DEN  16  JUNY  1747  EN
OVERLEEDEN  DEN  
8  DITTO Ao 1798 EN BE=
GRAAVEN DEN 9 JUNY
1798

 最後の3行は墓石では字形をたどることができず、「牌銘」によります。

ながらく天然寺を訪れる機会がなく、ヘンミーの墓石が心配です。風雨から守るため、屋根付きのお堂を建てるべきではないでしょうか。