渡辺崋山旧蔵蘭書(19)

[37] 阿蘭陀字引之写 欠本  五冊
不明。


[38] 魯西亜文字之写  弐冊
未詳。文化四、五年のいわゆる文化露寇事件に関するロシア語文書の写しかもしれません。渡辺崋山と交流のあった古河藩家老鷹見泉石関係資料に露寇事件に関するロシア語文書があります。『鷹見家歴史資料目録』(茨城県古河市教育委員会、平成5年)、132-133頁参照。渋川家文書のロシア語資料については、拙著『洋学の書誌的研究』、652-661頁参照。

この「三十八」番については、「渡辺登蘭書一件」に含まれる山路弥左衛門の報告書(天保10年5月)には、「第三拾八番魯西亜雑記之写右は差障候儀も無御座候得共可相成は世上江流布不仕候様仕度奉存候」とあります。また、この目録の最後の項目「六十五」番にも「魯西亜雑記写 地理風俗等之事相認候書ニ御座候 壱冊」とあります。世上流布させたくないという文言からすれば、「第三拾八番魯西亜雑記」は「六十五番魯西亜雑記」の書き誤りである可能性があります。


[39] 二童問答書之写 但三才究理書ニ御座候     十二冊
渡辺崋山旧蔵蘭書(7)第「十六」番「究理書二童問答」がヨハネス・ボイス『理科教科書』Johannes Buijs, Natuurkundig schoolboek.の原書であるのに対し、この「三十九」番はその筆写本と思われます。


[40] 薬品名目写  弐冊
かつて京都の古書店春和堂の主人若林正治氏が所蔵しておられた『アルファベット引き医薬品術語集』(江戸、天保5年)の類と思われます。そのタイトルは以下の通りです。

Verzameling van de Kunstwoorden betrekelijk de genees-meddelen; door m. s. kenzoo en daar na verbeterd en Zeer vermeerderd, Zelfs alhabetische gerangschikt, door O.G. sanpij te edo, tenpoo 5.

これによれば、術語集の編者は「m. s. ケンゾー」といい、謎の人物ですが、緒方三平(洪庵)が改訂増補しています。緒方洪庵は坪井信道が文政12年(1829)年に江戸深川に開いた蘭学塾安懐堂に天保2年2月に入門し、天保6年2月まで4年間、坪井塾で勉強しました。「m. s. ケンゾー」はおそらく坪井塾の蘭学生でしょう。



[41] 三才究理書写  六冊
[42] イスボルディング(人名)三才究理書写  葉本 五冊

 この目録で「三才究理書」の書名または説明は、この[41][42]以外に以下の3点があります。
[16] 究理書二童問答三才究理ニ御座候    壱冊
[39] 二童問答之写 但三才究理書ニ御座候  十二冊
[50] ボイス(人名)三才究理書  弐冊

このうち、[16][39]がオランダ共益社刊Natuurkundig schoolboekであることは既に述べましたが、[41]が「二童問答」なのか、「イスフォルディング」なのか、または他の「三才究理書」なのか分かりません。[50]は後に述べるように、Natuurkundig schoolboekあるいは、同じくオランダ共益社刊のVolks-natuurkunde(この本については、後述)のいずれなのか、分かりません。したがって、[41]には以下の4つの可能性があります。

(1) Natuurkundig schoolboek
(2) Isfording, Natuurkundig handboek.
(3) Volks-natuurkunde
(4) その他の「三才究理書」

[41]は目録では、「陋 四十一」番のもとに、何も限定せずに一つ書きで、単に「一 三才究理書」としておりますので、(4)その他の「三才究理書」かもしれません。とすれば、第4の候補としてあげられるのは、高野長英自筆「三才窮理書」(全6冊、東京大学総合図書館蔵)でしょう。

この写本については鳥井裕美子「『三才窮理書』の研究」(日蘭学会会誌、通巻第13号、1982)によって、全6冊のうち5冊はオイルケンス『被造物より考察された創造主の完全性』J.A. Uilkens, De volmaaktheden van den Schepper in Zijne schepselen beschouwd. Groningen, 1803-1822. 4 dln. in 5 bdn.の第1巻緒言から第4講まで、および第2巻の第12講の写本であることが初めて解明されました。他の1冊がJ. Buijs, Natuurkundig schoolboek.であることは戦前に矢島祐利によって指摘されていました。

私は残念ながらいまだに、この長英自筆写本をみる機会を得ません。この記事を書くために、今、鳥井氏の論文をあらためて拝見すると、冒頭に、「『三才窮理書』は、和綴本6冊から成る蘭文写本で、その伝来、名称の由来は未詳」と書かれています。また、この写本は「現在『四十一番 三才窮理書 写本一』〜『同 写本六』という副紙で順序だてられている」とあります。

この「四十一番」という番号は、山路弥左衛門の提出した目録の控えに渋川六蔵が付けた「四十一」と一致します。提出された目録にも同じ番号が添えられていたでしょう。また6冊という冊数も一致します。偶然の一致とは思われません。すなわち、この高野長英自筆本は渡辺崋山の旧蔵書であった可能性が出てきました。鳥井論文に書かれているように「1825年から1828年までの間に鳴滝で筆写・研究されたものである可能性が最も強い」としても、天保3年以降、密接な協力関係にあった崋山と長英の間で、この写本が研究された可能性があります。

オイルケンスの原書については、佐賀鍋島家蔵書の存在が早くから知られていましたが、その詳しい書誌については拙著『佐賀藩旧蔵蘭書目録』(2004)pp. 53-54.で報告しました。Groningen, J. Oomkens, 1801-1808. 4 vols.の初版本で、第1巻から第3巻までの4冊本です。最終巻の第4巻(第5冊)が欠本です。この初版第1冊の海洋に関する部分(pp. 58-77)には多数の赤通しが付けられており、各冊に「芙蓉館蔵書」の印が捺されています。この蔵書印の由来は不明です。

手元にあるオイルケンス原書5冊本は、Groningen, J. Oomkens刊の第2版(2de dr. : 1ste deel, 1813; 2de deel, 1819; 3de deel, 1ste stuk, 1825)と初版(1ste dr. : 3de deel, 2de stuk, 1808; 4de deel, 1822)の取り合わせ本です。最初の3冊(第2版)について鍋島本(初版)と比較してみたいものです。