渡辺崋山旧蔵蘭書(7)

[16] 究理書二童問答 三才究理書ニ御座候 同  壱冊
「究理書二童問答」とは幕末、特に安政年間、黒船ショックで蘭学ブームが巻き起こった頃、各地の蘭学塾で「ヘンチーヤンチー」と呼ばれてよく使われた理科入門書のことです。

この「ヘンチー」「ヤンチー」はこの教科書に登場する二人の男子生徒の名前です。原文では、それぞれHeintje(ヘインチェ)、Jantje(ヤンチェ)となっていますので、「ヘンチー」「ヤンチー」はオランダ語の発音としては間違っています。

HeintjeはHendrik(ヘンドリック)、Hein(ヘイン)、Hen(ヘン)、JantjeはJan(ヤン)のそれぞれ親愛語です。日本語で、「ヘンドリックちゃん」「ヤンちゃん」というようなものです。

原書は、ヨハネス・ボイス『理科教科書』Johannes Buijs, Natuurkundig schoolboek.といいます。版元は、オランダ再洗礼派の社会教育団体「共益社」Maatschappy tot Nut van ‘t Algemeen(1784設立)です。この団体はキリスト教にもとづく市民教育普及のために教科書シリーズを出版しました。本書はそのひとつです。

初版は1800年1828年に第5版が出ています。手元の第3版(1809)は1989年11月23日にハーグのDe Grote Markt古書市でたまたま表紙のとれた裸本をみつけ、ライデンのJan van Welzen製本工房で装丁して貰ったものです。上下2冊の合綴本で、上巻(Eerste stukje)はXIV, 120 pp., 4 plates.下巻(Tweede stukje)は(6), 340 pp., 11 plates.となっています。

その「前書き」(「共益社」書記ヘンドリック・ラーフェケス署名)によれば、この教科書は「共益社」が、1796年に懸賞付きで募集した理科の教科書のひとつで、1等賞を受賞しました。応募作に求められた条件は、分かりやすく数式なしで学べること、偏見を打破すること、被造物を通して神の存在を証明すること、でした。

幕末の蘭学塾でよく使用されたオランダ語文法や理科の教科書は、「共益社」のキリスト教精神に基づく教科書でしたが、キリスト教知識がこれによって広まったどうか、速断は禁物です。よく調べてみなければなりません。その意味で聖書からの引用が多い共益社版オランダ語文章論『セインタキス』Syntaxis. Leyden, Groningen, 1810.の和訳は興味深いのですが、その話は他の機会にしましょう。

ところで、「二童問答」すなわちヨハネス・ボイス『理科教科書』の第5版(1828)はGoogle Book Searchで閲覧できます。
http://books.google.co.jp/books?id=vhEOAAAAQAAJ&pg=PA10&lpg=PA10&dq=heintje+jantje+natuurkundig+schoolboek&source=bl&ots=oITtq3igR2&sig=cq-9zGFWIyC-UTDPos4S2-u2hcg&hl=ja&ei=gzv3Sd6rIYOHkQXPgIHoCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1#PPP6,M1

第3版の「前書き」(第3版とおなじく「共益社」書記ラーフェケスの署名)で、著者は「共益社」幹部会、王立ハーレム学芸協会、ロッテルダム実験哲学協会、ユトレヒト学芸協会の各会員として紹介されています。第3版の「前書き」では最初の二つの肩書きだけです。19世紀前半、オランダ各地で地方学芸協会が科学知識の普及に大きな役割を果たしました。アーネムの学芸協会で活躍していたファン・デン・ブルックJ.K. van den Broek (1814-1865)が来日後、そのアーネムでの経験を生かして科学知識を日本に伝えたことも思い出します。

最後に、田原市博物館に伝わっている「二童問答書」蘭文写本を紹介します。以前、ちょっと見せていただいたことがありますが、2002年9月4日に詳しく調査させていただきました。豊橋蘭方医浅井弁安(1822-1887)の遺族から明治32年に当時の崋山文庫へ寄贈された弁安旧蔵蘭文写本3冊の1冊です。寄贈時の「覚」という寄贈書リストには、「二童問答書 ヘンチーヤンチー 洋 二 (春山筆写)」とあります。

現存する「二童問答書」蘭文写本は1冊(本文91丁、薄葉紙本、244x173mm)のみです。表紙に「二童問答書」と朱書し、朱筆の枠で囲っています。表紙見返しの力紙がはがれており、「二童問答書上二」の墨書が現れました。調査の結果、ヨハネス・ボイス『理科教科書』第3版上巻
Johannes Buijs, Natuurkundig schoolboek. Uitgegeven door de Maatschappij: tot Nut van ‘t Algemeen. Eerst stukje. Verbeterde en vermeerderde Uitgave. Met koperen platen.
Te Leyden, Deventer en Groningen, bij D. Du Mortier en Zoon, J.H. De Lange, en J. Oomkens en Zoon. MDCCCIX[1809].
の前付けページpp. [III]-XIV(「前書き」(Voorberigt)、「第3版に際して読者へ」(Aan de lezer, bij de uitgave van dezen derden druk)、「上巻で扱う事項を証明するのに必要な実験器具一覧」)、および序説(Inleiding)と本文全文(計110 pp.)、図版4枚の筆写本であることが分かりました。

崋山の蘭学研究仲間であった鈴木春山の筆写と伝わっていますので、崋山旧蔵の「究理書二童問答」も第3版であったかもしれません。

浅井弁安旧蔵蘭文写本の残りの2冊は「地理書」(25丁)とイスフォルディング『医学教育用理学提要』J.N. Isfording, Natuurkundig handboek voor leerlingen in de heel- en geneeskunde. Amsterdam, C.G. Sulpke, 1826.の写本(81丁)です。いずれも「二童問答書」と同様の装丁で、薄葉紙本です。

この「地理書」も上記の寄贈書リストに「春山筆写」とあります。表紙に「地理書」と朱書し、朱筆の枠で囲っています。表紙に「Aardrykskunde」の朱書、見返しの力紙の裏(装丁以前は表紙だったと思われます)に「Aardryksbeschryving 地理書」との墨書、裏見返しに「iWATA」(未詳)との墨書があります。

原書の標題紙が筆写されず、第1丁がde bewerker en uitgever(編集刊行者)によるvoorberigt(前書き)、第2丁と第3丁がvoorrede voor den tweeden druk(第2版のための序)となっており、その末尾にj. van wijk roelandszoon / hattem december / 1819と原著者ルーランスゾーンの署名が写されています。本文の内容は地球の形、大きさ、自転、自然誌、政治誌、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オーストラリアについての概説となっています。こうした特徴から、原書は
ルーランスゾーン『青少年のための地理略説』第2版Jacobus Van Wijk Roelandszoon, Beknopt aardrijkskundig schoolboek voor de jeugd. 2de verb. en verm. druk. Zutphen, 1820.と思われます。