渡辺崋山旧蔵蘭書(1)

財団法人崋山会の『崋山会報』第22号(4月11日発行)に「客坐掌記(天保三年)に描かれた肥満英国人」と題する一文を寄せました。

田原市博物館所蔵の客坐掌記(天保三年)原本を今春初めて閲覧する機会を得ましたので、崋山がそのなかに模写した肥満英国人図の典拠、M.ハウトゥイン『リンネ氏の体系による博物誌』第1冊「人間および哺乳動物」(アムステルダム、1761)を紹介し、同時にこの第1冊の抄訳についても言及したわけです。

巻頭言を依頼されたことに気付かず、ついあれこれ盛り込んでしまいましたので、文字が小さく極めて読みにくくなったことを申し訳なく思っております。

 『崋山会報』には、現在、研究会長渡辺亘祥氏が崋山「外国事情書」の現代語訳を原文と対照で連載されています。これをみても、崋山が外国事情の典拠として、

百科事典『ニューヱンホイス』
Nieuwenhuis, Gt., Algemeen woordenboek van kunsten en wetenschappen. Zutphen, 1820-1829.

地理辞典『ブ[sic]ーランスゾーン』
Wyk Roelandszoon, J. van, Algemeen aardrijkskundig woordenboek. Dordrecht, 1824.

などの蘭書を盛んに引用していることが分かります。崋山は蘭学者高野長英や小関三英の協力によって蘭書から情報を得ることが出来たわけです。天保9年(1838)にはオランダ商館長ニーマンとの対話録『鴃舌惑問』を著し、また、前年のモリソン号打ち払い事件を契機に体制に対する危機感を押さえきれず、『慎機論』を執筆しました。

 天保10年5月14日、崋山は蘭学を忌み嫌った目付鳥居燿蔵が断行したいわゆる蛮社の獄によって、幕政誹謗の罪で捕らえられ入牢しました。「渡辺登蘭書一件」という当時の文書には、6月29日に鳥居が配下の小目付小笠原貢蔵らに調査を命じ、7月4日に老中水野忠邦へ上げた、貢蔵らの報告書が収められています。以下、「渡辺登蘭書一件」は『日本の夜明け展』図録(田原町博物館、1995)71頁掲載の翻刻によります。

この報告書によれば、逮捕時に崋山の所持していた蘭書は全部で121冊にのぼり、5月22日に天文方山路弥左衛門へ調査のため下げ渡しになりました。山路は天文台詰の蘭学者宇田川榕菴、杉田立卿、杉田成卿にその蘭書を調査させ、目録を作成させました。翌23日、蘭書は右筆荒井甚之丞を通して、書面と目録を添えて返却されました。

また、その目録の「第三拾三番」には、「キリスト申名目載有之尤邪教之書ニも有之間敷候得共世上流布候而は宜かる間敷奉存候」(キリストという名目が載っております。もっとも邪教の書物ではありませんが、世間に流布しては宜しくないと存じます)という趣旨の文言が書かれていたといいます。さらに、下げ渡しになった蘭書のなかにあった「天学書二冊」は、春先に天文方が長崎から取り寄せを要望したものの、途中で不用になった本であったといいます。ところが、そのとき天文方見習の渋川六蔵はいずれ必要になったときには入手を世話いたしましょう、と語っていたため、渋川六蔵が崋山への蘭書売買に関わっていたのではという疑惑が取りざたされたといいます。

「渡辺登蘭書一件」にはこれより先、同年亥5月付けの山路弥左衛門の書面も写されていますが、鳥居は貢蔵らの報告書にその文意が込められているので、この書面を水野へ上げる必要はないといって、手元に預かり置いたと、との説明が書き加えられています。この山路の報告をみると、書き出しは、

此度御下ケ之蘭書並写本類取調候処別紙之通いつれも天文地理医療書等ニ而世上流布仕候而差障リ之書ニは無御座候

です。「別紙之通」とありますので、この書面にはもともと、天文台詰の蘭学者宇田川榕菴、杉田立卿、杉田成卿の三名に山路が作成させた目録が添えられていたはずです。

また、この書面の末尾は、

御下ケ書籍類返上仕此段奉申上候以上
 亥 五月            山路弥左衛門

です。つまり、この書面は崋山所持の蘭書を調査して返却した際に添えられたものです。書面の中身は上記の書き出しに続いて次のように、目録の「第三拾三番」、「第五拾壱番」、「第三拾八番」についての説明と判断です。前二者は「世間に流布してはならないもの」、「第三拾八番」は「できれば流布してほしくないもの」との判断です。

第三拾三番はキリスト之名目載有之尤邪教之書ニも有之間敷候得共世上流布仕候而は宜かる間敷候

第五拾壱番和蘭国王江いつれの国より歟相贈候書簡は早急ニ飜訳仕兼候間何等之儀認候哉相知兼候得共世上流布仕候而は宜かる間敷候

第三拾八番魯西亜雑記之写右は差障候儀も無御座候得共可相成は世上流布不仕候用仕度奉存候


以上が文書「渡辺登蘭書一件」が伝える、崋山旧蔵蘭書121冊の取り扱いとその内容にかかわるあらましです。しかし、その121冊が具体的にどんな蘭書から成っていたのか詳しく知りたいと誰もが思うはずです。

実は、もう10年以上まえ、人生50年を記念して拙著『洋学の書誌的研究』(臨川書店、1998年9月)を刊行したとき、山路弥左衛門が書面で「別紙之通」と報告した崋山旧蔵蘭書目録の写しを確認していました。しかし、その目録の65種121冊からなる記載が極めて不完全で、原書を書誌的に同定するのに時間を要するため、拙著に収録を諦めました。

今回、縁あって『崋山会報』に拙文を寄稿したことがきっかけになり、10年ぶりにこの書誌的な同定作業をブログ上で行っていくことにします。

この数日、研究費申請の書類書きで予想以上に忙殺され、ブログが中断しました。また、種々の事情で中断するかもしれませんが、しばらく崋山旧蔵蘭書を追っていくつもりです。