蘭英漢対訳辞典のエンゼル

阿蘭陀通詞吉雄権之助(1785-1831)は晩年にモリソン『英華辞典』Robert Morrison, A Dictionary of the Chinese Language. Part III. Macao, London, 1822. をもとに「蘭英漢対訳辞典」を編纂しました。engelの訳語を、その佐久間象山旧蔵本(真田宝物資料館所蔵)によって見ると、

[1] engel, m. angle[sic], 神仙.
[2] engel, angle[sic], wordt uitgedrukt door 神使; een goddelijk bode.

とあります。[1]、[2]は説明の都合上、私に付け加えました。[sic]はangelの誤りをそのままに表記した印です。権之助は次のような手順で、これらの項目を編纂したものと思われます。まずモリソン『英華辞典』から次のangel項目を抜き出します。

[3] ANGEL may be expressed by 神使 Shin sze, a divine messenger.
[4] Angels, are by the Romanists called 天神 tëen shin. The Mahomedans in China call angels 仙 sëen.

次ぎに、[3]の英語をおそらく商館員の協力を得て、angel, wordt uitgedrukt door 神使; een goddelijk bode. とオランダ語に翻訳します。その上で、セウェル『英蘭辞典』で英語angelに対応するオランダ語engelを見出し、これを見出し語に立てて、[2]としたと思います。

架蔵のセウェル『英蘭辞典』(1766)では、ANGEL, Een Engel, als ook een Angelot.とあります。

さて、[1]の「神仙」の訳語はモリソンの辞典に見えません。[4]の英語は「エンゼルはカトリック教徒によって天神と呼ばれているが、中国のイスラーム教徒はエンゼルを仙と呼んでいる」の意味ですが、権之助がこれを理解したかどうか、これだけでは分かりません。商館員の協力でオランダ語訳されたかもしれません。

そこで、[1] engel, m.に注目しましょう。このm.はmannelijkの略字で「男性名詞」の意味です。権之助のこの「蘭英漢対訳辞典」では、見出し語のオランダ語名詞の男性、女性、中性の区別は、m./v./o.すなわち、mannelij/vrouwelijk/onzijdigの略号で示されています。このm./v./o.の記号による区別は、舶載されたオランダ語辞典のなかではマルチン『明解オランダ語辞典』H. Martin, Bereedeneerd Nederduitsch woordenboek. Amsterdam, Martin & Comp., 1828.(再版1829)にだけみられます。

したがって、権之助は、この辞典の次の項目を見たはずです。

Engel, m. en. ligchaamloos schepsel; volgens de Heilige Schrift geesten, welke van God ter volbrenging van zijne bevelen gebruikt worden.

これを試みに和訳すれば、「Engel、男性名詞、複数形はengelen。無形の被造物。聖書によれば、神の命令を実行するために神に使われる精霊。」の意味です。

私の推測では、モリソンの[4]の説明も、このマルチンの説明も権之助は意味を理解したのではないかと思います。しかし、キリスト教禁教のため、いずれの説明も省略したのでしょう。モリソンの辞書にない「神仙」の訳語は権之助が両辞典のキリスト教的な説明を省略した上で、付け加えた訳語でしょう。

吉雄権之助の編纂した「蘭英漢対訳辞典」には原典のモリソン辞典から、儒教や仏教関係の例文が多数採用されていますが、キリスト教関係の例文はほとんど削除されています。