舶載蘭書の天使

天使のことをオランダ語でengelといいます。原音に近い表記はエンヘルですが、蘭学者たちはエンゲルと呼んでいました。阿蘭陀通詞や蘭学者たちにとって、「エンゲル」はある意味で身近な存在でした。というのも、彼らが目にする蘭書の口絵や地図の装飾にはしばしば天使が描かれていたからです。

大槻玄沢の門人中、最もオランダ語がよくできた地理学者山村才助(1770-1807)は新井白石の地理書『采覧異言』をもとに、当時入手できる限りの舶載蘭書を参照して『訂正増訳采覧異言』を著し、文化元年(1804)に幕府へ献上しました。こうした公務のかたわら、「夢遊漫筆」という厖大な雑記を書きためていました。「夢遊」は才助の号「夢遊道人」に由来します。この漫筆は残念ながら才助の没後に大部分焼失しましたが、そのなかの『西洋雑記』全六巻は幸いにも写本で残り、流布しました。これはゴットフリート『史的年代記』その他の蘭書から珍説奇話や博物記事を抜き出して編訳したものです。

この『西洋雑記』には、「エンゲル」が「羽翼ある天人」また「天使」と説明されています。

すなわち、巻三の「西洋図画に譬諭を設る説」という章では、

書籍の首に其選者の像を描き、傍に「エンゲル」(羽翼ある天人)を図し或は笛を吹く形あるハ「ヱンゲル」の遠く飛び笛声の遙に聞ゆるが如く其撰者の声価遠聞の意に取るなり。

と見えます。また、巻二の「天より瑣奪馬(ソトマ)国を焼く説」という章は、古代ユダヤの都市ソドムに男色がはびこり風俗壊乱したため、この都市が神罰を受け劫火で焼き払われることになったとき、神が唯ひとり男色に染まらなかった善良な「落徳(ロッテス)」に「エンゲル」を使わし劫火を避けて逃げるように命じたという物語です。ここで、才助は「エンゲル」に次のような注釈を付けています。

羽翼ある天人なり、一名「ヘヱメル、ホツテ」といふ、これ天使といへる義なり。

この「ヘヱメル、ホツテ」の原語はhemelbode(ヘーメルボーデ)です。典拠を探してみますと、蘭学者のよく使用したハルマ『蘭仏辞典』(1729)には、

Engel. z.m. Gods bode, Gods gezant. Ange, messager de Dieu.

とあります。オランダ語の双解「Gods bode, Gods gezant.」(神の使い、の意)にhemelbodeの語がありません。典拠はハルマとならんでよく使用されたマーリン『蘭仏辞典』でしょう。その初版(1717)には、

Engel m. Hemelbode, onligchamelyk en verstandig wezen. Ange. m.

とあります。このオランダ語双解は「天使、無形の霊的存在」の意味です。才助ほどのオランダ語力であれば、この意味を理解できたと思います。