洋学始末

大槻如電『新撰洋学年表』(昭和2)は序文、索引をのぞいて本文158頁すべてが、如電自筆の影印版です。これを本文も含めてすべて活字に翻刻した版があります。ずいぶん以前に知人からいただいたのですが、この活字翻刻版の刊行年、刊行者を知りません。

「わか王父(おほち)磐水翁ははやくより和蘭のふみよむことに志されやかて蘭学階梯といへる書(ふみ)を作られたり是そ我か日の本に外つ国学ひの開け来し始なる」

大槻修二(如電)は『日本洋学年表』(明治10)の跋文をこのように始めています。玄沢を蘭学の祖とする立場は明白です。

如電が『日本洋学年表』刊行時から明治35年頃までに筆録した洋学史調査記録『洋学始末』が伝わっています。私の閲覧した京都大学附属図書館所蔵写本は、大正3年9月28日の登録印があります。当時京都帝国大学図書館では館長新村出司書官山鹿誠之助(平戸山鹿家出身)、司書市村有済を中心に、各地の洋学資料を採訪筆写しました。この大正写本ともいうべき洋学資料の原本は失われたものも多く、貴重です。

『洋学始末』の原本はおそらく大槻家に伝わったものでしょう。京大の大正写本の題簽および内題には「洋学始末 底本」とあり、原本にこの題簽があったのでしょう。目次は以下の通り。[ ]に補注を入れます。

先考行実(大槻磐水行実)  [文政十年五月九日、大槻茂腊(磐里、玄幹)識語] 
山村氏略譜         [山村昌永(才助)伝、土浦中学教員大矢透の書状による]   
春山行状(戸塚)      [戸塚静海伝]
伊東長翁行実        [伊東玄朴伝]
先府君状略(塩田松園)   [塩田順庵伝]
長崎家伝          [高岡長崎家伝、文政十一年七月一日、長崎家五代愿禎(浩斎)識
               語] [浩斎先生小伝、不肖男正国謹誌]
萩野(喜内)森島(中良)伝 [百家蒅行伝抄、○天狗孔平、○森島中良] 
処士鳩渓墓碑銘       [鷧斎杉田翼(玄白)撰]  
平賀源内伝并附録      [高松 片山直造達述] 
鈴木春山伝
鶴州遠藤先生墓碣銘     [尚歯会創設者紀州藩儒遠藤勝助の墓碑銘、紀州藩儒斎藤
                蠡(南溟)撰]   
紅毛医言叙         [磐水雑抄一、永富独嘯庵が合田強の紅毛医言に寄せた序文]
諸子行実          [本文にこの題は無し、幕末蘭学者数十名の書き出し]
見聞筆記          [坪井信良、杉田玄端、伊藤圭介、桂川月池(甫策)、勝海舟からの返
             信、桂川月池、横山由清、坪井信良等からの聞書、その他抄本からなる]
    以上

この目次からも明らかなように、『洋学始末』を見る限り、如電の調査は阿蘭陀通詞や長崎の蘭学に及んでおりません。

もっとも、長崎談叢第三輯(昭和3年11月)には、明治十一二年頃、如電が長崎の阿蘭陀通詞関係資料を購入して東京へ持ち帰ったことがあり、その後、一時期長崎の史家と大槻家との間で史料の貸し借りをめぐってまずい関係になったが、大正になって如電が長崎を訪問したおり両者は仲直りしたという逸話が載っております(同誌、47〜48頁)。

「明治十一二年頃東京の大槻如電翁が長崎に出張して来て西道仙翁や聖堂の向井兼通氏等を先導に立て当地に現存する唐蘭通事特に阿蘭陀通詞の家に就きその保蔵の記録類を購入して帰東した 西道仙翁の実話」

「中野柳圃や馬場佐十郎の事蹟が別らぬので大槻家の一部の史料を貸して貰ひたいと思ひ北川市長の名で借用方を申し込んだ所がその返事が「当方の史料は辛苦困苦して集めたもので他人の御用を勤むる為めに蒐集したものではござらぬ」と一気の肱鉄砲を食はされアツと云つて引き込むだものであつた」

大槻家のみならず江戸の蘭学は長崎の通詞蘭学から多大の恩恵を蒙っています。『洋学史年表』や『洋学始末』の世界(教科書的ステレオタイプの源流)を抜け出て、しかも江戸か長崎かの本家争いではなく、日欧文明交流史という観点から新しい洋学史研究を実証的に進めたく思っております。