大槻玄沢顕彰会

3月28日、実学資料研究会・洋学史学会合同研究会(於京都大)の懇親会で、長年大槻玄沢の門人調査を行っておられる鈴木幸彦さんから、一関市で大槻玄沢顕彰会が発足した旨の挨拶と入会の呼びかけがありました。

そこで、鈴木さんに、京都大学医学部の同窓会「芝蘭会」は京都帝国大学初代総長木下広次が大槻玄沢の芝蘭堂にちなんで、京都帝国大学医科大学の同窓会発足時に命名したことを伝えました。京都帝国大学初代医科大学長が蘭学者坪井信道の孫にあたる坪井次郎であることは今では洋学史研究者もあまり知りません。

坪井信道、坪井為春、坪井次郎、坪井芳治の四代にわたる蔵書「坪井本の洋学資料」を整理して、京都大学附属図書館報で報告したのはもう15年前のことになります。今では機関レポジトリー
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/37271/1/s310201.pdf
で簡単に検索できます。館報をわざわざ書庫で探す必要もありません。

本日、フランス人留学生が到着。さっそくキャンパスを案内。途中、研究室近くの廊下から春の大文字を一緒に眺めました。彼はこれから私のもと大学院で洋学史研究をはじめます。

私は大文字を仰ぐたびに、大槻如電が大正12年夏に詠んだ「大文字大文字。如意嶽頭火色熾。」の詩句を思い出します。如電は『新撰洋学年表』の原稿を浄書し終え、休養のため初めて京都を訪れたのでした。そして9月1日。関東大震災でまさに烏有に帰すところ、かろうじてその原稿を救い出したのでした。

この年表の扉題には「大正十五年十一月/新撰洋学年表/抜抄自在/但記書名/大槻如電修」とあります。「抜抄自在/但記書名」の文字には誰しも老学の心意気を感じます。奥付をみると、実際の刊行は昭和2年1月10日、発行者は大槻茂雄です。


如電は明治9年9月に「王父磐水五十年祭」を執り行い、追遠の科として「日本洋学年表」を作り、翌10年11月に活字版で出しました。その50年後、昭和2年1月に増補版を刊行したのでした。時に如電82歳。

「活版は少くも三校を看ざる可らず老眼其労に堪へず大字に自書し写真鏡に縮写して上板」することにしたのです。如電は大槻玄沢の顕彰に生涯をかけたといってよいでしょう。

懇親会も酣になったころ、私は鈴木さんに、大槻家による玄沢顕彰運動の背後には、奥羽列藩同盟の悲劇を乗り越え、その汚名をそそぐためにも、家学の蘭学が明治国家の推進する近代化の先駆であったことを証明したいとの熱い思いがあったのではないか、明治8年の東北巡行に際して林子平の海国兵談「自筆本」(実は全くの異筆)が天覧に供せられたのも、大槻家や旧藩士たちの押さえがたい感情があったのではないか、と自説を披露しました。