バスタールト辞書の天使

『バスタールト辞書』の標題紙

NIEUW-GEDRUCT/BASTAARDT/WOORDEN-BOEK./DOOR/OOYE SUNTOO./LEEFARTS VAN/DEN LANDSHEER NAKATS, / (woodcut)/ T' JEDO. /1822./

のカットには開いた書物の両端を抱えた二人の天使が描かれています。このカットの典拠は底本となったメイエル『語彙宝函』の銅版口絵から採られています。

この天使図のある銅版口絵はメイエルの諸版のうち、第5版(1669)、第6版(1688)、第7版(1698)だけですので、この天使図も『バスタールト辞書』の底本を絞り込むのに役立ったわけです。

さて、問題の銅版口絵は第5版、第6版、第7版の間で、口絵の下部の刊記を除けば、それほど大きな違いはありません。その刊記は下記の通りです。

第5版: T'AMSTERDAM. / Voor de Weduwe van J.H. Boom 1669.
第6版: T'AMSTERDAM. / By Hendrik en de Wed. D. Boom, 1688.
第7版: T'AMASTERDAM. / By Hendrik en de Wed. D. Boom (刊年なし)

銅版口絵は講堂のような建物の内部を斜め上から見下ろした構図となっております。座席には学生たちが並んでいます。手前に立っているのは教授たちでしょうか。女性も二人みえます。講堂の天井はなく、中空に浮かんだ二人の天使が左右から開いた書物の両脇を抱えています。見開きの書物には「WOORDEN/SCHAT.」(語彙宝函の意)と刻まれ、書物からは放射線状の光が下方を照らしています。『バスタールト辞書』のカットはこれを模したものですが、「WOORDEN/SCHAT.」の文字は写さず、空白になっています。

天使図の下には、講堂の三方の窓が描かれ、その下の三方の壁には、左から「Bastaard Woor- Verouderde Woor- Konst Woorden.」(外来語、古語、術語の意)とあります。

講堂には正面奥にひとつ、右壁にそって四つの演説台があり、それぞれ教授らしき人物が座っています。正面の演説台の前板には「Taalgeleerdheidt」(語学)、右壁の四つの演説台にも前板に文字が見えます。手前から奥へに「Godsgeleerdheit」(神学)、「Rechtsgeleerdheidt」(法学)、「Geneeskonst」(医学)と判読できますが、最後は判読できませんでした。

ファン・ハルデフェルトの博士論文『辞書編纂者ローデウェイク・メイエル』Ike van Hardeveld, Lodewijk Meijer (1629-1681) als lexicograaf. Leiden, 2000.はメイエル『語彙宝函』の詳細な書誌的研究として、大変な労作です。これによれば、最後の正面に近い演説台には「Wysgeerte」(哲学)の文字が書かれているとのことです(同書、p.141)。

「Taalgeleerdheidt」(語学)はメイエル『語彙宝函』の三部構成のうち、主として第1部「外来語」、第3部「古語」に、他の四分野は第2部「術語」(見出し語はラテン語)に関わるわけですが、もちろん第2部にも文法用語が見出し語として多数含まれています。

『バスタールト辞書』の編者大江春塘や校訂者馬場貞由がこうした西洋の学問分類に関心をもったかどうか、是非とも知りたいところですが、それを証明する資料がみつかりません。

ただ、加賀藩蘭学者吉田長淑がメイエル『語彙宝函』第10版第2部を筆写した写本がかつてあり(今は伝存不明)、幕末加賀藩蘭学者高峰元稑(げんろく、高峰譲吉の父)旧蔵の写本類のなかに、同じく第10版第2部が伝わっていることを考えると、この第2部についても今後、研究の跡をしめす資料が出現しないとも限りません。最近の拙稿「高峰元稑旧蔵蘭文写本について(一)」(北陸医史、第31号、平成21年2月)参照。

洋学資料の収集家として知られた香川大学初代学長神原甚三は『バスタールト辞書』を三点所蔵していました。そのうち刊本の二点は香川大学神原文庫に伝わっていますが、写本の一点は戦後京都の古書店若林春和堂に渡り、現在は雄松堂書店刊行のマイクロフィルム版で利用できます。この写本の現物を見る機会を得ないのですが、マイクロフィルム版でもはっきりと、標題紙に平戸藩医六代嵐山甫庵(春生)の蔵書印を確認できます。この写本の天使図には書物に「BAS/TAA/RDT/WOO/RDE/N B/OEK」と書き込まれています。嵐山春生の手と思われます。

舶載蘭書を介して江戸時代に受容された天使像については、もっと書きたいのですが、今日はこれまでにしておきます。