一番丸のこと 風雅と洋学

勤務先の京都大学人間・環境学研究科では、昨年京都市長浜市と連携交流協定を締結しました。その成果のひとつとして、一昨日、3月23日、長浜市に「風雅のまちづくり長浜研究所」を開設しました。

この開所式に参加し、昨日は学部の卒業式でしたので、日記が滞りました。tonsa日記は紀貫之の時代から酒が入ると中断するようです。

さて、洋学史研究者がなぜ「風雅のまちづくり」に関わるのか、不思議かもしれません。「風雅のまちづくり」は近代主義の行き過ぎによってもたらされた人間と環境(自然)との不幸な関係を根本的に見直し、日本の伝統的な暮らしの美意識である風雅に学びつつ、環境(自然)との新しい関係を作り上げよう、という実践的な試みです。

世の中には、いまだに「蘭学は日本の近代化を準備した」「蘭学者は近代化を導いた先覚者である」など、蘭学についての固定観念あるいはレッテルが根強く残っています。蘭学に限らず、ある時代の知識、学問が終息したあと、それを論ずる際に、その知識、学問の持っていた多様性を無視し、後世の観点から単純に決めつけるのは簡単ですが、そうした態度は学問的態度とはいえません。

琵琶湖にちなんでお話しします。琵琶湖と蘭学、という一見突拍子もない話題です。

私と長浜の出会いは、8年ほど前、江戸時代に国友一貫斎という長浜市国友町で活躍した鉄砲鍛冶と蘭学の関わりを調べだしたことに始まります。鉄砲鍛冶の一貫斎が天体望遠鏡や空気銃、各種からくりを作ったことは知られていますが、そうした職人の技と蘭学知識とがどのように結びついていたのか、これを調査研究することになったのです。というのも、一貫斎がモデルにした望遠鏡や空気銃はオランダ渡りであり、空気銃の原理、望遠鏡の光学、水カラクリの原理は蘭学知識そのものだったからです。

一貫斎が活躍していた文政年間、湖南の膳所(ぜぜ)には藩医で長崎帰りの蘭学者山本周輔がおり、オランダ語原書から「空気論」を翻訳し、ボイルの法則を紹介しています。一貫斎との関連を思わざるをえません。天保時代には幕府の蘭学弾圧のかげに隠れて、わずかですが蘭学を志していた知識人がいました。膳所藩校遵義堂の校長をしていた黒田扶善です。その実兄森鼎は最近判明したことですが、砲術家として西洋弾道学を研究しています。扶善の子、行次郎は京都、大坂、江戸の蘭学塾を渡り歩き、酒が好きだったようで、自分の名前をもじって麹廬(きくろ)と号しました。嘉永初年(1850年頃)デフォーのロビンソンクルーソーオランダ語訳から翻訳しました。

膳所には、一貫斎に蘭学知識を与えた山田大円という眼科医も一時期滞在しましたし、カラクリ師として名高い奥村菅次も住んでいました。管次の作品は今も長浜の曳山に伝わっています。

伝統工芸職人と蘭学知識の結合が琵琶湖を媒介にして行われたように思えます。

今から23年近く前、1986年夏、私は幕末加賀藩蘭学者鹿田文平のご子孫のお宅で、貴重な洋学資料を発見しました。その中には、明治2年3月3日に琵琶湖に初めて浮かんだ蒸気船「一番丸」の錦絵や同2年8月25日に加賀藩校で儒教道徳の「忠孝廉節」をうたった英語の詩がありました。

この一番丸は大津の水運業者(百艘仲間)の一庭(いちば)太郎兵衛、啓二兄弟が加賀大聖寺藩士の石川嶂(たかし)と協力して、長崎からイギリス製機関を購入し、神戸と大津の工場で建造した外輪船です。大聖寺藩は大津汽船局を設立し、一庭啓二を船長として、一番丸を海津〜大津間に就航させました。

琵琶湖に浮かぶ「一番丸」の図は木版多色刷りの優雅な作品で、上方に右に加賀大聖寺藩儒東方真平の漢詩、中央に鹿田文平の漢詩、左に金沢の俳人直山大夢の句が刷られています。

この図を見る限り、蒸気船という文明の利器と比良の山影をうつす春の琵琶湖は、よくうちとけた風雅な趣を醸し出しています。毒々しい輸入顔料で染め上げられた錦絵でなくて、本当によかったと、つくづく思います。作者は金沢の絵師「庫敬」。彼の手元にはそうした文明の毒は届いていなかったようです。

なぜ加賀藩蘭学者がこの錦絵に登場するのか。詳しいことは分かりませんが、大聖寺藩に資金を提供したのは加賀藩であったこと、鹿田文平自身、文久三年夏に加賀藩軍艦発機丸の蒸気器械調理方として箱館へ航行したしたことがあること、などが背景にあるのでしょう。