蘭学研究に便利な蘭仏辞書

蘭学研究をオランダ語知識なしで行うことは、阿蘭陀通詞や蘭学者の伝記研究ならば、ある程度できるでしょう。しかし、彼らの業績の内容を調査し、文化交流史あるい文明交流史のなかに位置づける作業をしようとすれば、オランダ語知識は不可欠です。もちろんオランダ語知識だけでは足りませんが。

昨日、

ハルマの蘭仏辞典を座右において参照してはじめて、「江戸ハルマ」の真の姿が分かるのに。

と書きました。

江戸時代にオランダ語文献から翻訳された蘭学資料は刊本、写本を含めて厖大なものがあります。『解体新書』(1774)が翻訳された1770年代から凡そ100年間に、17世紀末から19世紀中頃に刊行されたさまざまの分野の蘭書が読まれ、引用され、翻訳されました。

したがって、原典の刊行された時代に応じて、研究の際に参照すべきオランダ語辞典も変わってきます。たとえば、「江戸ハルマ」の研究には、当然、底本となったハルマ『蘭仏辞典』第2版(1729)が不可欠ですし、「ドゥーフ・ハルマ」の研究には、第3版(1758)も必要になるでしょう。18世紀の刊本であれば、一般語についてはハルマ『蘭仏辞典』第4版(1781)でもよいでしょう。ただし、初版(1710)は見出し語が少なく、語彙も古いもので、あまり用を足しません。

昨日、言及した早稲田大学図書館「江戸ハルマ」全画像公開ページにつけられた解説には、

オランダの出版業者フランソワ・ハルマ Francois Halma(1653-1722)の著わした蘭仏辞典 Woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taale, 1708 を底本として、オランダ語の見出し語一つ一つに和訳語をあてたものである。

と述べられていますが、底本の刊行年は1729年であって、1708年ではありません。ハルマ蘭仏辞典と競合する形で版をかさねたマーリン蘭仏辞典の初版(1708)と刊行年を混同したようです。

この記事の題「蘭学研究に便利な蘭仏辞書」をみて、不思議に思った方もいるかもしれません。蘭学を研究するのにフランス語の知識が必要なのか、蘭英辞書を利用すればよいではないか、フランスびいきではないのか、と。

実は、17〜18世紀のオランダ国民には国語辞書がありませんでした。19世紀初頭になって、フランスの事実上の支配下で、国民教育の重要性が認識され、オランダ初の国語辞典であるウェイラント辞典が刊行されたのでした。それまでは、蘭仏辞典、仏蘭辞典が国語辞典の代わりをしていたのです。セーウェルの蘭英・英蘭辞典があるにはあったのですが、教育や文化の面でフランス語の影響力は絶大であったのです。というわけで、現代の蘭学研究にも、蘭学者の利用したオランダ語原書の正確な読解には、一般語についてはハルマやマーリンの蘭仏辞典が非常に便利なのです。

しかし、専門語はどうするのか。ハルマやマーリンは一般語辞典であり、専門語は航海術など若干取り入れているにすぎません。蘭学は医学薬学天文地理兵学など、広範囲の専門分野にわたっており、当時のオランダ語の専門語に関する知識はどのようにして得たらよいか。私たち現代の洋学史研究者も、江戸時代の蘭学者と同じような苦労をする場合があります。

同時代にオランダで出版された専門語辞典(kunstwoordenboek)を利用する方法がひとつあります。幕末に利用されたウェイラントWeilandの辞典が代表的なものです。しかし、その見出し語はラテン語やフランス語からの借用語が中心で、あまりに学術的。職業生活で使用されるオランダ語の専門語はそれほど取り入れられていません。

私のこれまでの使用経験では、ファン・モーク『新仏蘭・蘭仏辞典』S.J.M. van Moock, Nieuw Fransch-Nederduitsch en Nederduitsch-Fransch Woordenboek. Arnhem, C.A. Thieme, 1846.8vo.の第2部「蘭仏辞典」が蘭学研究に一番便利です。私の座右にあるのはGouda, G.B. van Goor刊の異版、2冊本(通計1500頁)ですが、ハルマ蘭仏辞典の伝統を引き継ぎつつ、新語、新語義、専門語を大幅に取り入れた実用辞典です。

残念ながら、このファン・モーク蘭仏辞典は入手がそれほど簡単ではありません。