西洋流砲術という口実

蘭学はそのルーツが長崎にありました。江戸時代、開国以前のいわゆる鎖国時代にあっては、オランダ語知識と最新の世界情報、西洋科学知識を得ようとすれば、どんな口実をつけてでも、長崎に留学し、阿蘭陀通詞とコネをつくることが一番の近道でした。

阿蘭陀通詞たちは世襲制でしたが、その役職柄、さまざまな役得をもっていました。出島のオランダ人たちが小遣い稼ぎにバタビアから持ってきた蘭書を入手し、数倍の直段で各藩の要路に売りつけるのはその最たるものでした。出島のオランダ人外科医から得た知識をもとに医学塾を開き、全国から集まった医者の息子たちを弟子に取るとるのも重要な収入源でした。

開国直後、海外知識に飢えた青年武士たちは、長崎留学を夢みましが、西洋流砲術を学ぶためという口実でしか留学許可を得られませんでした。それほど各藩の首脳は世界情勢に疎かったともいえます。長崎に留学出来た青年たちは最新知識をもとに、全国各地で線香花火のように蘭学の最後の輝きを放ちました。

長崎の風頭山の麓に広がる墓域に阿蘭陀通詞たちの墓を訪ねると、その墓石の規模から、いかに彼らが現世的な利得の世界を生きたか、まざまざと想像できます。

このように書くと、まるで学問は蘭学時代からすでに現世的な利害にまみれていたと思われるかもしれません。しかし、志筑忠雄の人生と学問を知れば、その強烈な対外危機意識、日本主義、旺盛な知識欲に胸打たれます。