『新体皇国史』における洋学(3)

洋学は「第十四章 文教の発達」において「洋学の発達」の項で記述されています。この章の構成をみますと最初に「文教の復興」があり、ついで「教育機関」(幕学、藩学、私塾、寺子屋、心学」、「洋学の発達」が来ます。そのあと「文学」(上方文学、江戸文学)、「建築」「絵画」「工芸」で終わっています。長くなりますが、「洋学の発達」の項を全文引用します。振り仮名は省略します。

洋学の発達
二世紀半にわたる鎖国の間、ヨーロッパ人としては、オランダ人のみと交通してゐたわが国民が、世界の事情に疎かつたことはいふまでもない。しかし、全然世界の事情について理解がなかつたわけではない。蘭学若しくは洋学と呼ばれた西洋学術の研究が、この間に発達しつゝあつたのである。長崎のオランダ通詞(オランダ語の通訳官)や奉行所の役人等は、常にオランダ人と接したから、おのづからオランダ人及びオランダ語を通じて、西洋の事情を知ることが出来た。また出島の商館長(加比丹といふ)は毎年江戸に参府したから、江戸においても特別な人々はオランダ人に接することが出来、学者などはその機会に学問上の質問をすることも出来た。また、風説書といつて、商館長からオランダ船の入港毎にヨーロッパ及び東洋方面の情報を幕府に上つた。それ故、幕府の当局者は簡単ながら絶えず世界の事情を知ることが出来た。また、好学の通詞は、語学ばかりでなく、医学・本草学(博物学)等をも研究してゐたが、片手間のことであるから十分に発達しなかつた。しかるに、明和八年(二四三一)から江戸において前野良沢杉田玄白中川淳庵等の医者が、ドイツ人の著した解剖書の蘭訳から、訳述を企て、四年の苦心を重ねて解体新書を完成した。蘭学という語は、これ等の人々の首唱したものであつたが、ついで大槻玄沢等の蘭学者が出て、蘭学は年と共に発達・普及した。幕末になつてオランダ語以外にフランス語・英語・ロシヤ語等も研究せられ、蘭学者の研究の範囲が拡大されてからは、洋学といふ言葉も用ひられるやうになつた。幕末のわが学界に、最も影響を与へたものは、ドイツ人でオランダ商館の医者として長崎に来たフイリップ・フランツ・フオン・シーボルト(文政二年より同十二年まで滞在、安政六年再渡来)とオランダの医官で、長崎の海軍伝習所の教官となつたポンペ・ファン・メールデルフォールト(安政四年より文久元年まで滞在)とであつた。各藩の優秀なる学生が彼等の指導を受けて、西洋学術の研究は発達・普及し、わが国科学の発達を促し、国民の世界的知見を広める上に役立つた。

この記述に、皇国史観との接点またはその影を見ることは困難です。シーボルトやポンペの影響を高く評価していますが、「わが国科学の発達を促し、国民の世界的知見を広める上に役立つた」幕末の洋学が「勤王思想の勃興と明治維新」(第十五章の章題)のなかでどのように展開したのかは、全く記載されていません。

しかし、むしろ、この皇国史観の教科書で「科学」の語が現れるのはこの箇所だけ、ということに注目すべきでしょう。これには、昭和十年に上野の科学博物館で、ベルリンから送られてきた大量のシーボルト関係資料による「シーボルト資料展覧会」が開催されて以来、「科学する心」を国民の間に醸成するためにシーボルトの業績が大いに喧伝されていたという背景もあると思います。

また、オランダ通詞の蘭学研究は「片手間」であったので発達しなかったとし、それに反して蘭学を首唱した解体新書翻訳グループ、蘭学を普及させた大槻玄沢を高く評価する洋学史観は今や見直さなければなりませんが、教科書レベルではまだまだステレオタイプとして残っています。