小城出身 納富介次郎

『大隈伯昔日譚』の著者、円城寺清(明治3〜41)が佐賀県小城出身であることに気がつきませんでした。幕末小城藩の洋学資料は佐賀大学附属図書館の小城文庫に残っておりますので、多少調査したことがあります。

その際、小城まで足を伸ばし、小城の町を散策した楽しい思い出があります。小城羊羹は有名で、町には羊羹屋さんが軒を連ねていました。今度は桜の頃に訪れたいものです。

小城出身で日本の工芸教育の父ともいえる納富介次郎(1844-1918)については、展示図録『納富介次郎と四つの工芸・工業学校』(佐賀県立美術館、2000)によって、その業績を概観することが出来ます。ある方からこの図録をいただいて大変嬉しく思いました。

昨年四月、金沢に出掛けたとき、彼が初代校長をつとめた金沢工業学校(明治20年設立)の後身である石川県立工業高等学校を訪ね、校門脇にある納富の銅像を見学しました。この「県工」の卒業生に車で案内してもらったのですが、在校時(25年ほど前でしょうか)に納富の話は聞かなかった、とのこと。

現在はネットで、濱岸勝義氏による詳しい伝記調査報告
「納富介次郎の足跡と共に歩んだ人々」
を読むことが出来ます。

納富が幕命により文久二年(1862)、上海視察を命ぜられ、高杉晋作、五代才助、中牟田倉之助らと同船しました。その時の上海見聞録である「上海雑記」は、昭和21年5月10日発行の『納富介次郎・日比野輝寛 文久二年上海日記』(全国書房発行、著作権者東方学術協会 代表者日比野丈夫)に収録され、はじめてその内容が知られるようになりました。太平天国研究家外山軍治の巻頭解説によれば、「上海雑記」は当時、東方文化研究所員貝塚茂樹の所蔵であったといいます。例言には、同じく東方文化研究所員であった日比野丈夫氏(日比野輝寛の令孫)がこの『文久二年上海日記』に収録された三篇の本文校訂と一部字句の修正を担当した、とあります。

先年亡くなられた日比野丈夫先生は遠くから多少とも存じ上げていました。その矍鑠ぶりは旧制三高生の「三高魂」を彷彿とさせました。その先生が私の生まれる前年に、このような本文校訂の仕事をなさっていたとは、最近、納富のウィーン万博参加の足跡を求めてウィーンへ出掛けるようになるまで、知りませんでした。