採長補短(2)

『大隈伯昔日譚』第二章「進歩主義保守主義の消長」にも洋学導入の原理としての採長補短が繰り返し現れます。すこし長くなりますが、引き続き引用します。19世紀後半の日本において、採長補短が文明移入の原理であるばかりでなく、尊王攘夷、富国強兵、帝国主義的覇権へと進む日本的な「文明化」の論理でもあったことがよく分かります。


其諸国の事情を知らんとするには、須からく其諸国の文字を知り、其の原語に通ぜざるべからず。是に於て外国語を学ぶの必要起れり。徳川幕府は外国との交通を禁絶し、堅く鎖国の正義を執りしといへども、彼和蘭葡萄牙等の諸国は、特に長崎に於て通商するを許されたるを以て、彼地に蘭学の開け居りたるにより、当時の情勢に刺戟せられて外国語を学ぶの必要を感ぜしものは、争うて蘭学を修むるに至り、而して余等も固より其中に在りし者なり。
余等の蘭学を修むるは、先づ欧米各国の事情を審にし、其長を採て我短を補はんとするの目的なりし。然るに此時、我国の政治の上に、宗教の上に、文学の上に、その他社会百般の事物の上に、容易ならざる勢力を有し、影響を与へしものは国学と漢学とにして、此学を修めたるものは、大概、頑固僻拗にして守旧の性習牢くして抜くべからざるものあり。特に二百数十年間の太平に忸れ、安逸に楽み、復外邦あるを知らず、偶々之あるを知るといへども、蛮夷戎狄を以て之を目せしにより、米、露、英、仏の諸国、相継ぎて親交通商を求むるや、痛く其の排斥すべきを説き、鎖港攘夷の論は凄まじき勢を以て、全国到る処に号叫せられたり。


又余等は情勢の必要に駆られて洋学を修むるに至りしといへども、未だ必らずしも全く国を開きて欧米各国と交通する意念のありしにあらず、只彼の長を採りて我の短を補はんと欲するに過ぎざりしのみ。攘夷の念は独り彼国学を修め、漢学を学びたる人々の脳裡に存せしのみならず、実に一般民人を通じて其心底に存し、余等の如きも起寝に之を忘却することなかりしなり。然りと雖も、彼国学を修め、漢学を学びたる人々の唱道する攘夷の論と、余等少壮の士の懐抱する攘夷の説とは、其性質に於ても、其方法に於ても、殆ど天壌の差異ありき。彼等は二百数十年間の久しき、{くさかんむり+最}爾たる小天地の太平に忸れ、且国漢学を修めたるものヽ通風として、頑僻守旧の性習は移すべからざるものありしを以て、直ちに国を鎖して外夷を攘斥せんと欲したり。余等は欧米各国の文物典章は必らず我を裨益する者あるを察し、姑く親交通商して彼の長を採り我の短を補ひ、以て国を富まし、兵を強くし、然る後に実勢実力の下に彼を攘伏せんと欲したり。


当時余等は以為らく、我日本帝国は政治の上より見るも、宗教の上より見るも、其他社会百般の事物の上より見るも、又臣民の忠勇武烈なる点より見るも、古今に独歩し、東西に冠絶し、欧米幾多の邦国も之に匹{にんべん+壽}すべくもあらず。只彼に及ばざるは兵器のみ、軍艦のみ、築城のみ理化のみ学術のみ。苟も之を修めて以て彼の長を採り、我が短を補ふことを努めば、土地狭しといへども、人口少しといへども、能く欧米を凌駕し世界に雄飛するを得べしと。
感想の大なるものは、希望も又大なり。余等少壮の士は、千載遇ひ難きの好機運に際会し、此の如き感想を懐きたるを以て、更に一歩を進めて壮大の希望を立つるに至れり。其は他なし「先づ国を開きて欧米各国と親交通商し、彼の長を採りて我短を補ひ、徐ろに、国を富まし兵を強ふし、然る後に進んで、北、魯西亜の南図を制し、西は英、仏の東洋に於ける勢力を挫き、且支那朝鮮等の隣国にして自から守りて独立する能はざれば、寧ろ之を併呑して東洋の天地に一大帝国を創建し、以て世界に覇を称せん」との事是なり。