日本全国を挙げて西洋学に(福沢諭吉)

東京国立博物館で開催中の「未来をひらく福沢諭吉展」(3月8日まで)をまだ見る暇がありません。この展示のテーマに関連して、諭吉が西洋学に日本の未来を託した一文を思い出しました。

「明治十八年四月四日梅里杉田成卿先生ノ祭典ニ付演説」(梅里餘稿、明治18年9月刊、収録)という演説記録です(以下、原文は片仮名を平仮名に、漢字は通行の字体に改め、句読点を加えて引用します)。

安政6年(1859)2月19日に43歳で亡くなった当時最高の蘭学者杉田成卿の二十七回忌における福沢の演説です。福沢は安政5年の冬に江戸に出て数ヶ月「都下の方角も不案内遂に一度も先生に謁するの機を得ずして畢生の遺憾」という立場でしたが、この演説で蘭学の歴史を回顧し、医師の蘭学を士族の蘭学に広めた杉田成卿の功績を顕彰して、次のように結んでいます。

先生の没後二十七年の今日と為りては、凡そ日本社会の兵事は無論、政治学問商売工業の事より日常衣食住の細に至るまでも、大に趣を変じて専ら西洋文明の風に従ひ、{帝+口}に医師士族を蘭学にしたるのみならず、日本全国を挙げて西洋学にしたるは時の勢とは雖ども、其因て来る所の原因を求れば偶然に非ざるを知る可し。即ち我国に行はるヽ西洋の文明は始め医に端を発して、中に士族に伝へ終に全国に及ぼしたるものにして、其中期に在て先生に属する勲労栄誉は天下万世に湮没す可らざるものなり。左れば今日後学の我輩が斯道の隆盛を喜で私に先生を拝するのみならず、天下文明の為に公に謝する所のものなかる可らざるなり。

「日本全国を挙げて西洋学にしたるは時の勢」と言っていますが、慶應義塾を創立し、西洋学をもって日本の未来をひらこうとした福沢の自負が込められていると思います。しかし、「斯道の隆盛」という表現に儒者の道統意識を感じます。洋学をそうした意識で回顧し、洋学を全国民のものにするのは洋学第三世代の自分である、という言外の宣言のようにも読めます。