東北関東大震災被災地の洋学資料(中)藤塚知明の誕生地雄勝町大須浜

(上)池田文庫洋書管見 補遺
14bis.  Templeton, William, Werktuigkundig handboek; bevattende parktische regels en tafels, toepasselijk op land- boot- en locomotief- stoomwerktuigen. Vertaald door F.G. Wente uit het Engelsch. Amsterdam, C.L. Brinkman, 1852.
標題紙欠落。上記の標題は他の書誌データから同定した。皮の背表紙に「Templeton / Werktuigk. / Handboek」との印字、本文最終ページp. 174に「蕃書調所」印あり。裏見返しの遊紙に「This book Belongs to Kunishito Tagushi」「S. Kusakabe」「This book belongs to T. Hoshi」との書き入れあり。本書は熊本大学図書館(未確認)、東北大学附属図書館狩野文庫(VIII,B 1065)にも所蔵。英語原書はTempleton, W. The Engineer’s Common-Place Book of Practical Reference, consisting of Practical Rules and Tables adapted to Land, Marine, and Locomotive Steam-Engines. Third Edition. London, 1851.であろう。

2003年1月11日(土)早朝、5:37大谷(おおや)海岸発の前谷地(まえやち)経由女川(めのかわ)行き列車に乗り、7:40石巻着。駅に隣接する食堂で朝食(ワカメうどんとかきあげ)をとる。9:05発の宮城交通バス、船越行きに乗車。尾浦(おうら)、御前(おんまえ)、指浜(さしはま)、大磯、波板(なみいた、雄勝湾が見え始める)、分浜(わけはま)、水浜、船戸(伊達の黒船造船の地)、上雄勝をへて、10:41雄勝車庫着。そこからタクシーにて大須浜に到着。あらかじめ連絡をとった地元の山下老人の出迎えを受けた。

まず、大須浜の魚港から太平洋の大海原をしばらくながめ続けた。海防論の先駆者林子平の同志でありパトロンであった塩釜神社祠官藤塚知明は、元文3年(1738)、この地、桃生郡大須浜の漁師喜惣治の子として生まれた。幼名子之助。少年のながめた海にはロシアの黒船が出没していたはずである。正月のおだやかな海を背にすると、漁民の航海安全を祈るかのように「象頭山」と大字を彫り込んだ石碑が聳えていた。そのわきにある庚申塚の石は表面の文字がすり切れている。

「天地同根万物一体 大性院
庚申塚
元文五庚申五月廿一日 龍沢八世無外和□□□  (連名 18名)」

とかろうじて判読できた。子之助少年もこの庚申塚のまわりで遊んだに違いない。林子平とは同年生まれである。仙台の魚問屋永野屋で奉公。主人利右衛門は暦数天文に詳しく、天文観測を行い藩から咎められほどだった。英才ぶりを認められ、塩釜神社社家藤塚知直の養子となる。通称式部、号塩亭。知直、知明父子ともに崎門派の神道学者吉見幸和に学ぶ。

知明はその蔵書印の印文「万国一地球王只在日本」に明かなように日本中心主義を唱え、子平の長崎行きを支援し海外情報をあつめた。子平の『海国兵談』出版(寛政3年)を援助。子平はこの海防論で唐山(漢民族)、韃靼(満州族)が「妙法」(キリスト教)の信徒となって日本を侵略する危険を訴え警鐘を鳴らす。それは「鹽竃大神の託宣」であった。知明は北辺の守護神塩土翁が塩釜神社主祭神であると主張し、寛政10年神仏混淆を排撃する過激な行動(仏舎利事件)に出て、流刑の身となった。

庚申塚の近くには、「大須防波堤竣功記念 大正十三年一月十六日着工 同年六月三十日竣功」の記念碑も目に入った。山下老人の案内で、坂をあがり藤塚知明の石碑に向かう。途中、民家の表札で「雄勝町大字大須大須 三」という住所を確認。山下老人の案内で岡の上にたどりつくと、「老人憩いの家」前の広場にある大きな石碑の文字が目に入った。

神道興隆 藤塚知明先生誕生之地」

周囲に鎖をめぐらせた台座の上に、高さ2メートル、幅1.5メートルの石碑が聳えていた(脇に「避難場所」の看板が見えた。今回の大津波はあの避難場所まで達したのだろうか)。山下老人によると、昭和10年9月十五浜村青年団(団長:山下松四郎)によって稲井石で建碑されたものが、事故により破壊されたため、竹下内閣時代に雄勝町への補助(ふるさと創生事業か)によって再建されたものという。この土地の地名は、桃生郡大須浜から桃生郡十五浜村大須(明治22)に、さらに桃生郡雄勝町大須(昭和16)と変遷し、平成17年の合併(2005年4月1日)で石巻市雄勝町大須となっている。

「誕生之地」碑の正面左脇にある黒御影石の「顕彰記念碑」碑文を以下に掲げる。

「藤塚式部知明先生顕彰記念碑
先生は元文三大須浜の漁家に生れ幼名を子之助と称す,幼くして両親を失い齢十一歳にして仙台魚商永野屋に丁稚奉公す、刻苦勉励向学心に燃え独学を以て漢書を解読し学者小僧の評あり、塩釜神社祠官藤塚式部知直その天稟を認め請ふて養子と為す、後に名を知明と改め更に学究研鑽を積み遂に一代の学者となり多くの著書を世に送り二代式部祠官を継承す、先生大いに神威を輝かし国典に力を注ぎ皇道恢弘に努む、又寛政の志士蒲生君平高山彦九郎林子平と親交を重ね、特に子平とは刎頸の交りを結びその快著海国兵談三国通覧の完成に寄与する事大なりと謂う、先生は常に神道の興隆と皇国の大義を高唱する余り極端に仏教を排斥し偶々仏舎利事件連座の由を以って桃生郡梅の木瀬上家に幽閉さるる寛政十二年七月三日没す、享年六十三歳、塩釜上野山に眠る。先生は謫居生活三年の無聊を慰め寓居の机を削り次の辞世を遺す、先生逝て已に百九十余年、茲に郷土が生んだ偉人の遺徳を顕彰し永く後昆に伝ふ。
    謫居思不禁 雲路逐飛禽
    仰惟祈天定 碧翁知赤心
 東の空往く月の惜けくも
ながめなほりそ故郷思ふも
   平成二年六月吉祥日
     勳四等功八級 元雄勝町長 阿部徳治郎 撰文 」

 この謫居の五絶と歌を彫り込んだ木製の粗末な文机は、藤塚家より塩釜神社博物館に寄託されているものをかつて同博物館調査のおりに拝見した。

3月25日の朝日新聞朝刊に、震災をうけた「石巻市雄勝町」の記事が掲載された。それによれば、雄勝町は人口4300人、高齢化率40%。国内シェアの大半を占める雄勝硯の産地。ホタテ、カキ、ワカメの養殖、天然のアワビ、ウニで生計を立てる。雄勝湾を20?の波が襲い、高台にある市の雄勝総合支所も津波に見舞われた。町内で唯一、大きな被害をまぬがれた集落、大須地区は住民約300人、大須小学校は全員無事、とある。

元文5年の「庚申塚」碑、「象頭山」碑(建碑の時期は不明)、大正13年の「大須防波堤竣功記念」、そして「神道興隆 藤塚知明先生誕生之地」碑と「藤塚式部知明先生顕彰記念碑」は現在、どうなっているのだろうか。

 知明は安永9年(1780)塩釜神社裏坂の鳥居前に私設文庫「名山蔵」を立てた。筆者はまだその跡地をたずねること機会をえないが、池田菊左衛門が編集した『明治五年学制頒布五十年・宮城県図書館創立四十年記念誌』(大正11)の口絵写真には、日本初の公共図書館とされる「青柳文庫」(天保2年1831設置)の建物の写真とともに、礎石のみ残る「名山蔵」跡地の写真が掲載されている。寛政10年に知明が流刑に処せされたあと間もなく、子平の友人工藤球卿の娘只野真葛は「名山蔵」を訪ねた。その折りのことを真葛は語る。「この式部といふ人は、ざえすぐれて古き物をめでつつ世に珍らかなるかぎり求め出でて人にも見せなどせしを、今はよこざまの罪にあたりて流されけり」「その人のもてなしけん俤さへ推量られて、いと哀に胸つぶ\/となるここちす」(「鹽竃まうで」)

<名山蔵文庫の洋学資料>
名山蔵文庫の蔵書内容ついては、知明の四男東郷が享和2年に編集した「名山蔵書目録」(宮城県図書館小西文庫)によって大方知ることができる。これまでに筆者が調査できた名山蔵文庫の洋学資料は以下の通りである。
仙台市博物館所蔵分:
 1. 河口信任「解屍篇」 写 子平の兄友諒が明和9(1772)年、知明へ謄写贈呈。 
2.「坤輿外記」南懐仁著 写(「丙申秋日書於長崎旅館」)安永5(1776)
 3.「輿地国名訳」(「安永六年丁酉得之和蘭象胥本木栄之進崎陽館内書写」)写
 4.「地図略説(和蘭地理書セヲカラーヒー)」本木良永訳 写 (「安永戊戌夏得于佐崎能助於肥前鎮台館内書」)安永7(1778)
 5.「利瑪竇撰 坤輿図説」写 知明自筆
 6.「西洋奇図」(F. Valentyn, Oud en Nieuw Oost-Indien, Dordrecht, Amsterdam, 1724-1726.、「ケレイキスブック」W. Dilichius, Kriegsbuch. Franckfurt am Mayn, 1689.からの図版抄写)
 7.「和蘭本草抜翆」(ヨンストン『禽獣譜』、A. パレ『全集』蘭訳から抄写)
 8.「紅毛禽獣図略」 (プリニウス『五巻本博物誌』から抄写)
 9.「東航和蘭海路記」写 松村元綱訳
 10.司馬江漢筆「蘭画」
 11. 出島蘭館倉庫再建記念銘文拓本(1755)、オランダのローソク、カルタ、キセル
宮城県図書館小西文庫所蔵分:「奇器図説」

寛政3年に子平が名山蔵から借覧した艾儒略「職方外記」は所在が不明である。子平旧蔵の「職方外記」写本は仙台市博物館所蔵となっている。