やせ細った蘭書

やせ細った蘭書―ゴットフリート『史的年代記』のこと―


 江戸時代における西暦の知識は、キリシタン弾圧によって一旦途絶えたあと、十八世紀後半に蘭学が勃興するにおよんで、阿蘭陀通詞や蘭学者、さらには国学者の間に広まりました。当時、西暦ひいては西洋史の知識普及にもっとも貢献した蘭書は、ゴットフリート『史的年代記』でした。

 本書は聖書にもとづく編年体の世界史です。ドイツのフランクフルトで一六三〇年に初版が出ました。豊富な銅版挿絵は版画家マテウス・メリアンによります。十八世紀中葉までに六版を数え、少年ゲーテの愛読書でもありました。それまではドイツでもイギリスでも聖書にもとづく世界史が主流でしたが、フランスの哲学者ヴォルテールが聖書にもとづかない世界史『風俗史論』(一七五六)を著し、啓蒙主義的な文明史観を全ヨーロッパに広めました。

 蘭学の勃興期に舶載されたのは、ヴォルテール流の世界史ではなく、ゴットフリート『史的年代記』の蘭訳だったのです。一番先にこれを入手したのは阿蘭陀通詞吉雄幸左衛門でしょう。安永七年に長崎に出かけた豊後の儒医三浦梅園は、吉雄からこの蘭書を見せられ、アダムとイヴの話を聴き、西欧には年号も干支もなく、その年が開闢以来五七二八年、耶蘇降誕以来一七七八年に当たることを知りました。

 吉雄の蔵本は蘭訳第二版(一六九八)でしたが、平戸藩松浦清(のち静山)はほどなく蘭訳初版(一六六〇)を自分の蘭書コレクションに加え、吉雄に解題をさせました。この初版は平戸の松浦史料博物館に伝わっています。その巻頭の肖像図集からピタゴラスヒポクラテスプトレマイオスの三人を選んで研究したのは、通詞本木良永でしょう。静山公は書中に見出した十字架図に注目しましたが、キリスト受難図もキリスト生誕図もすでに抜き取られて、欠落していたようです。洋風画家司馬江漢天明八年(一七八八)に平戸で松浦公所蔵の「紅毛書数々拝見」したと自慢していますが、ゴットフリートは含まれていなかったようです。

 吉雄旧蔵本は現在、京都大学附属図書館に伝わっています。これは大槻玄沢の門人山村才助の手沢本となり、世界地理書『訂正増訳采覧異言』(一八〇二年頃成立)や説話集『西洋雑記』(一八〇三年序文)の典拠に使用されました。しかし、残念なことに、タイトルページのみならず、挿絵を目当てに本文が多数、無惨に抜き取られており、才助の訳業の跡を十分にたどることが出来ません。オランダの古書店で見つけた同一版の完全本(全五六一葉、本文の銅版挿絵三〇七図)と比較したところ、計三〇五葉(図版六葉と本文の挿絵二八五図を含む)が抜き取られていることが判りました。厚さ八センチの大冊が、四センチにやせ細ってしまったのです。

 本書は寛政元年(一七八九)までに江戸にもたらされ、森島中良『万国新話』(寛政元年刊)所載ロードス島「巨銅人」図、司馬江漢「ゼウクシス葡萄写生図」(寛政元年)、石川大浪の「ヒポクラテス像」(一七九九)および「西洋天地開闢図」、司馬江漢和蘭通舶』(一八〇五)所載ロードス島「銅人之図」などの典拠となりました。「西洋天地開闢図」を除いて原図がいずれも本書から消えています。

 また、抜き取られた紙葉のうちには、前後のページの片隅にわずかに映された朱色の痕跡から、吉雄幸左衛門が片隅に朱筆でマークをした紙葉があったことが分ります。これを完全本で確認すると、挿し絵に古代ギリシャの画伯ゼウクシスとパラシウスの腕比べの図、および世界開闢以来三九四七年に救世主イエス・キリストが生誕した厩の図を掲載した紙葉であったことが判明しました。

 索引と本文への書き入れ、および『西洋雑記』に訳出された箇所から判断して、山村才助は完全な状態の本書を読解し、とりわけ聖書の創世記にもとづく開闢説とバビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマの古代史、そしてキリストの生涯を熟知していたはずです。本書がやせ細りだしたのは才助の死亡した一八〇七年以降でしょう。

 一方、一八一三年には平田篤胤が講談「古道大意」によって、日本が神国であることを説き始めました。間接的ではあれ、篤胤の比較文明論に強い刺激を与えたのは、才助が読み解いたゴットフリート『史的年代記』の開闢説であったと言えます。